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音楽と本

2018年、よく聴いた音楽まとめ

例年通り、今年も雑多に音楽を聴いた。

もちろん、現行物も聴いた。しかし、今年は50年代以前の音楽の魅力を再確認した。今の自分には、古い音楽の方が目新しく感じる。あまりに馴染み過ぎていて自然に聞こえているだけの可能性も高いが、現行のシーンと50年代以前の音楽の間には、大きな隔たりがあるように感じている。

苦手意識の強かった昭和歌謡にも手を出す日が近いかもしれない。とりあえず、筒美京平 御大の名前だけは覚えておいた。

 

 

アルバムを出す度に音楽性の変化するコーネリアスが、今回は真っ直ぐな歌モノを聴かせてくれた。我が子供や恋人などの大切な人への愛を感じさせるストレートな歌詞も従来のコーネリアスにはあまりなかったように思う。

さらに、この楽曲では大胆にもチョーキングを導入している。「泣きのギター」の代名詞とさえ言えるチョーキングは感情表現として極めて有効な奏法だが、従来のコーネリアスの感情と距離のある音楽性とは相容れないものだと感じていた。しかしながら、本作の、“泥臭くない泣きのギター”は、聴きどころの一つと言って良いだろう。

音を同時に鳴らすことを避ける演奏・ミックスが『Point』以降のコーネリアス大きな特徴の一つだが、歌モノでもその例に漏れず、一聴すると極端にさえ聞こえる譜割りのメロディをポップに聴かせてしまうのは見事と言う他ない。

 

 

 

バッハ弾きのピアニストとして名高いグレン・グールドブラームスを弾いた作品。偶然立ち寄ったリサイクルショップのレコードコーナーに300円程度で売られていたものを入手したら、望外に素晴らしいものであった。撫でるようなタッチで楽曲のメロディを一層引き立てている。

 

50年代ロックンロール、60年代のロック、70年代のパンク、80年代のポストパンク、90年代のオルタナティヴロックなど、それぞれの時代を象徴する音楽のフォロワーは絶えないが、それら年代以前のフォロワーは多いとは言えない。

最近の活動を見れば明らかなように、1950年代以前への憧憬を見せていたのが細野御大である。2017年発売の『Vu Ja De』は、50年代以前の音楽のエッセンスと細野流ごった煮サウンドを融合させて新たな境地に至ったことを感じさせる快作。現役のミュージシャンから、ロックンロール誕生以前の香りを含んだ音楽を聴けることは、本当に喜ばしい。

 

 

 Damiaに出会わずに死ぬ人生ではなくて本当に良かった。

自殺の聖歌として知られる「暗い日曜日」を歌った歌手Damia(ダミア)

ラジオは普段全く聴かないが、聴いた際に宮斬シャンソン特集をされていて出会った。

「Les goélands(カモメ)」は、歌詞が本当に素晴らしい。

印象に残っている箇所を要約すると以下。

死んだ船乗りたちの肉体は汚い袋に包まれて海に投げ捨てられるので、魂は神の下へは昇って行かない。海上のカモメを殺さないで、彼らは船乗りの魂と一つになって、船乗りたちを悼んでいるのだから

 

 

Yaejiは、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ちの韓国系アメリカ人のDJ/トラックメイカー。音楽は、リズムの核となるキックとベースは硬く、ラップと歌の間を縫うヴォーカルは柔らかく、ポップミュージックとして文句なしの仕上がり。

彼女は、 突然変異的というよりかは、多様な文化の集積する都会の豊かな文化的土壌のを恩恵を受け、誕生するべくした誕生したという印象が強い。それは、ハウスは勿論のこと、トラップ、ヒップホップ、ベースミュージックなど、クラブミュージックを中心に据える音楽的背景を感じるからだ。本作のような、実験性と大衆性の限界を攻める音楽があるからこそ、ポップミュージックは止められない。

 

 


北欧ノルウェーのデュオ。上で述べたYaeji をもっとアンダーグランド寄りで、ローファイにしたような音楽性が特徴。奇妙なメロディもそうだが、時折差し込むノイズのような音は、硬派な音楽好きにはたまらないと思う。

 

(この動画の音声はキーが高く編集されている)

今年は改めてJimi Hendrix(以下ジミヘン)の作品をよく聴いた。色々な音楽を通過した後、ジミヘンを聴くと、本当に色々な発見があった。今更確認するまでもなく、彼は、世界最高峰のギタリストであり、並外れた作曲家であり、卓越した詩才を持つミュージシャンであった。「May This be Love」は、自然信仰が美しく詩に落とし込まれている。滝が心に平静をもたらし、魂を浄化するかのような描写には舌を巻いた。

 

 

60年代から活動するメンフィス出身のファンク・R&Bバンド。

この楽曲は、異様に高いテンションのまま8分続く典型的なゴリゴリのファンク。

これ以上は、言葉で表現できないので割愛。

 

 

ジョージ・ハリスンのソロの最高傑作と言われる『All Things Must Pass』からの一曲。

正直、アルバム内では「Isn't It a Pity」以外にはあまり魅力を感じなかった。しかしながら、その魅力は強烈だった。この楽曲は面白いことに、同アルバム内で同曲のアレンジ違いが収録されている。Version 1 は、フィルスペクター御大によるアレンジで、終盤に「Hey Jude」のような盛り上がりを見せる。それとは対照的に、Version 2はダウナーで、サイケデリックや後のインディロックの流れを感じさせるアレンジ。

後に気付いたことだが、Galaxie 500 が『On Fire』で本曲をカヴァーしていた。

 

安易に理解しやすいものに逃げず、目まぐるしく変化を続けるビートミュージックシーンと同期し、時にリスナーさえ置き去りにする姿勢には頭が下がる。ビョークのような存在がメジャーなところで活動することには大きな意義があるように思う。

個人的には、「どうしてこんなに難しい音楽が多くの人に支持されているのだろう」というのが今でも変わらないビョークの印象だ。「すごいと思うけれどアクが強くて理解できない」状態が長年続いてきたけれども、今年は楽しんで聴くことができるレベルに成長した。

どこかのインタビューで、本人がロックには馴染めず、クラブミュージック界隈に親しみを覚えるとの発言を目にしたことがあるが、ビートミュージックに声を乗せる能力は、世界で3本の指に入るだろう。

 

 

言わずと知れた呂布カルマ

「言ってることよくわからないけど、なんかカッコいい」と感じさせるリリックには、言葉では形容しがたい陶酔感がある。インタビューなどを見る限りでは、常識的な社会人という印象だが、呂布カルマとして音楽活動する際の一貫してクールに徹する姿勢は、何かと「等身大」が持てはやされがちな音楽シーンで異彩を放つ。

日本ヒップホップシーンでは、OMSB、DJ Krush、S.L.A.C.K.と並んでお気に入り。

 

音楽との距離感と知覚の限界

300日近くブログを更新していなかったようですが、何やら今月のアクセス数が100を超えたというお知らせを見て驚きました。今は、世間との接点が少ない生活を送っているので、もし何らかの形で“誰か”に貢献できているのであれば、とても嬉しいことです。

 

今年は音楽からうまく距離を置くことができた一年でした。

数年ほど前までは音楽情報を追うことに必死になり過ぎていて、肝心の自分の生活が疎かになっていたように思います。人生を捧げて、「誰かの作品鑑賞」に終始することは、心中的美しさがありますが、私にはあまり馴染みませんでした。今のところ、私にとっての適切な距離感は、あくまで自分自身が中心にいて、その多少の刺激となる程度がちょうど良いようです。

音楽に限らず、趣味との距離感は大変難しい問題だと思いますが、多くの人が心地よいところを見つけられると少しだけ世界が平和になりそうな気がします。「オタク」界隈では知識量が尺度として幅を利かせていることが少なくないですが、そうした客観的に量りやすいもの以外の価値がもう少し認められるようになれば良いと思います。もう少し多様な尺度が共有され、それらを相互に認め合えるようになれば、色々な事柄がより面白くなるように思います。

 

話題は変わりますが、今年読んだ本の中では、ユクスキュルの『生物から見た世界』がとても面白かったです。人は、人との類似度から「知性」を測ろうとしがちですが、人以外の生物がどのように世界を認識しているかを知れば、人間中心の「知性」という言葉が如何に現実に即していないかを知ることができます。進化の末に生物が獲得したそれぞれの特徴・特性は、人間の知覚を遥かに超えたところで機能していることが多々あります。人は最大20kHzまでの音しか知覚できませんが、オオハチミツガは、最大300kHzまでの音を知覚することができます。一体、どのように音を聴いているのでしょうか。そんなことを考えると少しワクワクしませんか?

もし、我々が、オオハチミツガ並の聴覚を手に入れることができたならば、今賞賛されている作品群をより素晴らしく、場合によっては陳腐に感じたりするのでしょうか。それと同様に、より良い目を獲得したのであれば、「ピカソは塗りが甘い」と感じるのでしょうか。当然のように、備えた感覚器官を前提として物事を考えてきた自分を少し反省させられました。

 

 

 

 

 

考えること

情報の海を泳いでいるのか溺れているのかは本人にはわからないものだ。人の意見に耳を傾けること以上に、自分自身で道を歩いて、考える過程が重要である。優れた人の方法論を知ることも大切だが、それが自分にフィットするか否かを見極めるには自己テストが欠かせない。

今の自分には、その自己テストのステップが足りていないように感じている。自己テストが不足する原因は、自分で歩くことに伴う労力を嫌っているからだと思う。インプットはアウトプットとセットにしないと身にならないことを改めて認識する必要があるようだ。

 

とは言っても、今年の抱負を述べたり、認識や考え方を改めたりすることで人は変わらないことは経験的に知っているので、習慣の見直しに取り組んでいる。

 

単純な習慣の繰り返しから、螺旋階段を登って成長していく実感を得たい。自分にとっての幸せの実質は、他ならぬ自分自身が階段を登っている感覚そのものにある。

「語りたがり」

先日、某通販サイトで、ある音楽についての批判的レヴューを目にした。その主張は検討違いにしか思えなかったのけれども、多くの人に支持されているようだった。「金を払って買ったのだから当然の権利だ」と言わんばかりの批判は驚くほどに粗雑だ。そして、彼らの矛先は得てして作品自体が悪いことに向き、作品の良さを認識できない自分自身に向くことはないのである。

 

そうした経緯があり、考えさせられたことを文章にしておこうと思う。

 

改めて確認するまでもないが、多くの人は大半の分野で門外漢である。しかし、一個人が多分野の専門家になることは非現実的であるし、門外漢であること自体は問題ではない。*1

問題は、門外漢の群れが「語りたがり」になろうとすることにある。

 

言論や表現の自由が保障されている為、門外漢でも思いのままに考えることや発言することが許されているのだけれども、「語りたがり」は全体の利益に寄与しているのであろうか。集合知とでも表現すれば耳触りは良いが、迂闊な「語りたがり」を多分に含んだ集合知が下す「正しい判断」は極めて疑わしい。私には、慎重に議論を進めようとする良心的専門家の努力が、「語りたがり」によって台無しにされているようにさえ思える。

 

私自身、「語りたがり」にならぬように注意しなければならないと感じる場面が度々ある。一見、素人目には何の面白みも感じられないモノでも、その背景には専門家による極めて精緻な作り込みが隠れていることがある。専門家が徹底的に拘り抜いた微妙な色合いやニュアンスにすら気付けない素人が、その分野を得意げに語ろうとするのは滑稽でしかない。

 

念のため補足しておくと私の主張は、「専門家以外は沈黙しろ」ということではなく、専門外の分野について語る際に、自分が愚かな「語りたがり」とならぬように細心の注意を払うべきだということである。専門外の分野について語るときには、「自分はこの分野を語るに相応しい知識を有しているのであろうか」と自問し、可能な限り慎重に議論を進めようとする極めて常識的な姿勢を要求しているに過ぎない。

 

少し具体的に説明しようと思う。 

料理に疎くても、個人的感想のレベルで「あの店のあの料理が美味しくなかった」と言うことに問題ない。しかし、料理についての一般的なレベルでの見解を述べるには、慎重な姿勢を取るべきだということだ。

個人的見解から一般的見解への飛躍がある人は少なくない。(そもそも、私の文章にも同様の飛躍があるかもしれない)

 

 

まあ身も蓋もないことを言ってしまえば、私自身も「語りたがり」についての「語りたがり」に過ぎないのだけれども。

 

 

以下余談。

 

批判されていた音楽家は、批判に相当に傷心していたようだったので、素晴らしい音楽を制作した彼に、ファンレターでも出そうかと考えている。

 

 

 

*1:無論、専門家に近付こうとする営みは重要であるけれども

ウメハラ の講演を見て

1月19日、プロ格闘ゲーマーの梅原大吾(以下ウメハラ)の講演を視聴した。

 

あまりに素晴らしい講演だったので、あまり言語化したくない気持ちがある。これは素晴らしい映画や音楽に出会った時の感覚に近い。しかし、アウトプットすることで、この体験を深い記憶としたい邪な気持ちもあるので、少しだけでも自分の感想を文章にしておきたいと思う。

 

この記事では、抜粋や引用を用いてウメハラの講演の要点を書き出そうとは思っていない。なぜなら、手軽に手に入る「ハウツー」を求めるなら、書店に足を運んで所謂成功者の本を手に取る方が早いと思うからだ。講演の真髄は、長い時間をかけて本人の思考の流れを追体験し、結論に至るまでの過程や葛藤の意味を知ることにあると思う。

 

 


講演は本当に素晴らしいと言うほか無かった。

ただひたすらに一つの物事に熱中してきた人間の境地を垣間見ることができた。ウメハラは、単なる知識ではなく、実感を伴った知恵に基づいて言葉を発していた。深い思考と経験で磨き上げられた言葉は説得力が違う。

 

彼は「自分がしなければならないこと」ではなく「自分がしたいこと(格闘ゲーム)」に全力を捧げる人生を送ってきた。言葉にしてしまえば怠惰な人間に思えるが、実際は違う。なぜなら彼は、「自分がしたいこと(格闘ゲーム)を上達するに必要な多大な苦労を伴う成長の過程を歩み続けること」に全力を捧げてきたからである。このように表現すれば、彼が勤勉そのものであることが伝わるだろう。事実、彼は全く対戦相手が誰一人いない台風の日でさえもゲームセンターに通ったのだ。そして、彼は格闘ゲームが上達するに連れて一般社会的成功が遠のいてゆく現実に葛藤し、時には挫折しながらも、自分の信念に基づいて行動することを選択し続けたのである。

 

さらに彼の魅力は、単に一つの物事に異常なまでに熱中してきた過程や実績にとどまらず、その過程で多くのことを学び、一人の人間として成長してきたことにあると感じた。質疑応答の際、自分以外の周囲のゲームで活躍するプレーヤーがもう少し安心して生活できるような活動をしていきたいとの旨の話をしていたことに、ウメハラの人としての素晴らしさが滲み出ていたように思う。

 

 

最後になるが、自分の愛する対象に人生を捧げたけれども、時代や周囲の環境に恵まれず、「ウメハラ」になることが出来なかった人々について思いを馳せてしまうのは自分の性分であろうか。

 

 

2016年よく聴いたもの

世界はいつでも面白い音楽で満ちていると思っているけれども、

今年は、例年に比べて新しい音楽に手を出さない年だった。

同時代性に固執せずに、本当に良いと思ったものを時間をかけて何度も聴きこうと考えたからだと思う。

御託もほどほどに、2016年の音楽によく聴いたものを紹介しよう 

可能な限りコメントも付記しようと思う。

 

 

中東+トリップホップ

98年からレバノンで活動するグループ

中東の訛りのメロディやリズムの中毒性にやられた。

 

 

こちらは古い作品。

 一部ファンの間では、『Double Fantasy』 におけるYoko Onoの楽曲は「捨て曲」らしいが、賛同しかねる。

私には、John Lennon よりもYoko onoの楽曲の方が魅力的に感じる。とりわけ「Kiss Kiss Kiss」と「I'm Your Angel」は同じ作者が同じ年に書かれた曲には到底思えない。前者は、時代の最先端をゆくポストパンク/ニューウェーヴの萌芽であり、後者は完成されたポップ・ミュージックである。

Yoko Ono は様々な理由で世界的レベルで嫌悪されているようだけれども、少なくとも音楽に関しては非常に優れていると思う。これほどまでに優れた曲を自分で書き、優れたリズムで歌うことのできるミュージシャンは限られている。英語の発音などは瑣末な問題に過ぎない。技巧的でなく、強引に感情を掻きたてることもない。それでいて、聴き終わった後には少し前向きになれるお手本のようなポップ・ミュージック

 

 

 

 

ブログにも書いた南アフリカのビートミュージックGoqmの代表的ミュージシャン

その後、いくつか Goqmに関する記事に目を通したけれども、そのどれもGoqmの最も興味深く重要な点が抜け落ちてた。

むしろ、誤った記述していたと言っても良い。具体的に言うならば、それらの記事ではGoqmがUK Grimeから影響を受けていると書かれていた。

しかしながら、GoqmのミュージシャンはUK Grimeからの影響は受けてはいない*1。リスナーは、異なるミュージシャンの異なる楽曲に類似する要素を発見した際、それらを恣意的に繋ぎ合わせて「文脈化・体系化」しようとするものだけれども、実際がそれと異なっているというのは多々あることだ。

 

 

 

 

素朴な弾き語りも偶には良い。

 

 

京都を中心に活動するバンド/グループSupersize me 

彼らの音楽は、アンビエントであり、音響芸術であり、ポップ・ミュージックでもある。限られた本当に良い音楽の中で度々見られる、コードの制約がまるでないかのように自由に跳躍するメロディは、彼らの楽曲がポップ・ミュージックとしていかに優れているかを物語っている。ギターのいるバンドの音楽は、高性能のヘッドホンで大音量で聴くと中高音域の煩さに耳に痛くなることが多々あるのだけれども*2、彼らの音楽は相当に音量を上げてもあまり気にならないのは、意図的に脱ギターバンド的音源編集を施しているからであろうか。

 


 

かつてCocteau Twins が在籍し、今を時めくGrimesが所属するレーベルでもある4ADに所属するミュージシャン。新しい人なので、アルバムはまだ発表していない模様。

イントロのE/D- D 進行が耳に残る。


 

最近人気のHiatus Kaiyote を少し訛らせたようなイスラエルのグループ

独特の囁くようなメロディとリズムの訛りに心奪われた。

 

 

 

 

 

*1:GoqmのゴッドファーザーDJ Lug がそのように発言している

*2:MBVでさえも大音量で聴くと煩く感じる

リズムのヨレ

J Dilla が発展させたヨレたビートは、ポップ・ミュージックにおけるリズムのあり方そのものを変えた。J Dilla がトラック製作の際に、クオンタイズ(リズムの自動修正機能のようなもの)を使用しなかったことは、私の好きなエピソードの一つだ。

 

無論、J Dilla 以前にヨレたビートが存在していなかったと言いたいのではない。ただし、J Dilla以前のリズムのヨレは、上手い演奏者なら誰もが認識できるけれども、一般リスナーが明瞭に認識できるほど大きくヨレてはいなかったように思う。

 

Miles DavisHerbie Hancock らが推し進めたジャズとファンクなどのブラックミュージックの融合の流れが、ポップミュージックに応用された結果、90年代前半のアシッドジャズ辺りで一度頂点に達したように思う。しかし、リズムのヨレという点では、Headhunters のPaul Jackson(私が最も好きなベーシストの一人)とMike Clarkの超絶リズムセクションを凌駕するほどのものではない。アシッドジャズ周辺の楽曲は極めてタイトに演奏されていて、ヨレているとは言えない。



 

時を同じくして、ジャズやファンクと同時に強くヒップホップに強く影響を受けたD'Angelo が登場した。幼少からピアノに親しみ、Jimi HendlixやPrinceに憧れる一方で、ヒップホップネイティヴでもあった彼は、従来のソウルやR&Bにヒップホップ独特のヨレたリズムを組み合わせることに成功した。とりわけ、Pino Paradino とQuestloveがリズム隊を強力にサポートした2000年のアルバム『Voodoo』のヨレには舌を巻く。

www.youtube.com

 

2001年には、J Dillaもアルバムを発表。

J Dillaのヨレ感覚は相当に現代的で、それ以前とは一線を画す。

上述の『Voodoo』が玄人好みなニュアンスのヨレである一方、J Dilla のヨレはニュアンスの域を遥かに逸脱している。突っ込んだり遅らせたりと、これほどまでに大きくヨレていれば、リズムに疎い人でもはっきりと認識できるはずだ。


 

2009年には、Robert Glasper が、後に傑作となる『Black Radio』の原型とも言える音楽性を確立。(2009年のアルバム『Double-booked』から、Derrick HodgeとChris Daveによる鉄壁のリズムセクションが参加)

『Black Radio』以降の活躍に関しては、多くの人の知る通り。

このライヴは、21世紀でも屈指の名演。

 

Robert Glasper を初めて聴いた際に、「現代の音楽はここまで到達したのか」と驚嘆させられたと同時に、「音楽の進化はそろそろ終わるのではないか」との不安に駆られた。しかし、世の天才というのは、凡人の私の想像を遥かに上回る音楽を作り出し、旧来の音楽の枠組みを押し広げ、我々を感動させるのだ。

 

では、J Dilla、D'Anjelo、Robert Glasperに続く、歴史的ミュージシャンは誰なのだろうか。アンダーグラウンドで活躍するミュージシャンを加えれば、沢山挙げられるけれども、ポップミュージック界隈に限定し、リズムの面白さと言う点で考えるならば、Jacob Collier に違いないだろう。*1

 

次世代の彼は、一曲中でヨレに加えて、楽曲全体のリズムを制御し、一曲の中で自由にグルーヴを変化させるアレンジをする術を心得ている。彼自身が作曲とアレンジを担当し、全ての楽器を演奏できるからこそできる芸当に違いない。

ポップ・ミュージックとして成立させつつも、一曲を通して急なグルーヴの切り替えをあまりに自然にやってのける彼の楽曲は驚異的と言う他ない。さらに驚きなのは、ヴォーカルからコーラスまで彼自身が担当しており、そのコーラスワークや声が素晴らしいことに加えて、リズムが非常に素晴らしいことだ。リズム楽器に精通し、グルーヴをコントロールできる彼だからこそできる音の伸ばし方と切り方は、大道芸的コーラスグループのそれを遥かに凌ぐ。

 


彼は、多くの伝説が成し遂げてきた規格外のジャンル横断をやってのける。

 

Jacob君を知れたことは、今年一番の音楽的収穫だ。

彼を見出して世に送り出してくれた Dr.DreやQuinsy Jones に感謝したい。

 

*1:Hiatus Kaiyoteも考えたけれども、少し玄人向けだと思う