読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Personal Fabrication

音楽と本

承認のゲーム

誰かの自己承認欲求や自分の自己承認欲求に振り回されるのは止めよう。

 

人は究極的には神の愛にも等しい承認を求めているのだろう。

人の豊かな想像力は、欲望の源泉でもある。

 

湧き上がる欲望に身を任せて承認を求めるゾンビとなるのではなく、他ならぬ自分自身で自分を承認しようではないか。

その自分が不甲斐なく、承認することができないのならば、

毎日、自分にプレゼントをしてはどうだろうか。

勿論、それは自己破壊的なものではなくて、自分を耕すプレゼントが良い。

そして、その結果ではなく、日々歩みを進める自分を賞賛しようではないか。

 

記録は継続の友だ。

記録を付ければ、いつでも日々の歩みが確認できる。

何より素晴らしいのは、それがそのまま自分専用の教訓ノートになる。

記録が自分の失敗パターンを浮き彫りにしてくれるからだ。

それは、どこかで目にした自分自身の実感を伴わない偉人伝や自己啓発本を読むより役に立つ。同時に、それの意味を実感させてくれるものでもある。(自己啓発本はあまり良いものとは思っていないけれども、いかがわしい自己啓発本の中にも、一つくらい良いことは書いてある)

 

なぜなら、自分の記録と成果を出している人の記録を比較することができるからだ。

人は意外に自分自身が何をどの程度できるかを認識していないものだ。それを定量化して成果を出す人と比較することで、自分のどこに伸び代があるかを明確にすることができる。

 

最後に、継続的に鍛錬をする意識について非常に印象的なコメントを残していたニューヨークで活躍するジャズピアニストの海野雅威を紹介して終わりにする。自分の目標とする大きな成果(社会的名声などではない)を手にする人たちが共通して持つ精神を上手く言い表しているように思う。

 

元記事からの直接的引用は問題があるかもしれないので、以下に要約した。

練習というものは、10年後に花開くかもしれないから、長い目で見ること。

そのように考えていれば、短期的成果に振り回されることがない

 

 

ここからは海野雅威についての余談。

インタビューを読む限り、彼は人格的目標と音楽的目標が一致しており、良いプレイヤーになるために良い人間になることを目指していることには、深く感銘を受けた。

「音楽家は音楽さえ良ければそれで良い」と言う人は少なからずいるものだけれども、

私は、音楽も人格も素晴らしければ、それに越したことはないと思うので、「音楽さえ良ければ」という主張には全く共感できない。

 

破滅的人生の香り漂うドビュッシービル・エヴァンスも良いが、音楽と人を等しく愛したパブロ・カザルスのような音楽家に深く共感する。

www.youtube.com

 

 

 話が飛び過ぎたので、海野雅威の音楽を最後に紹介して終わりにしよう。

www.youtube.com

 

 

 

 

 

演者と観客、凡人の思考

セネカの『生の短さについて』には、優れた人間は行動に喜びに見出すと書かれている。

 

世の中には数え切れないほどの様々な分野で活躍する人や興味深い事柄に溢れているため、その各々に感嘆していている間に、自分の人生が枯渇してしまう。他人の人生の観客として、自分の人生を消費することは、可能な限り避けたいものだ。

その関係は、演者と観客と表現してもいい。

 

観客は、リスクが伴わない代わりにリターンも少ない。

一方、演者はリスクが伴う代わりにリターンも大きい。

 

私は、単にリスクを避けるためだけに、観客に逃避していないだろうかと自分に問いかけることがある。

 

大きなリターンを得たいならば、それに伴うリスクを背負う覚悟が必要だ。

 

しかしながら、演者であることに伴うリスクは大きな利点と言い換えることができる。

なぜなら、失敗を経験値にすることができるからだ。

 

単に演者であれば良いのではなく、「失敗とその原因分析を厭わない」という条件付きではあるけれども。

 

言ってしまえば、失敗に伴う本当のリスクは、他人に笑われる程度のもので、大したリスクではない。それさえ了解してしまえば、無限に経験値を稼ぎ続けることができるのだ。

 

実際、そのように理性的理解をしていても、現実的にそれが実感できるまでは時間がかかる。理性的理解を現実的理解に結びつけるには時間がかかるが、演者の利点欠点(失敗を恐れないこと)については時間をかけてでも深く理解しておくべきことだと思う。

瞑想と呼吸

数か月ほど前から、毎日瞑想をすることを心掛けている。

現段階で気付いたことは、瞑想は呼吸が全てであり、呼吸そのものだということである。

 

雑念の排除や思考の客観的認識などの「瞑想的」で大仰な心掛けは、呼吸という行為の延長線上に存在する結果に過ぎず、枝葉でしかない。

 

禅宗が座禅の姿勢に帰結した理由も、安定した呼吸を求めた結果であるように思う。

座りながらにして、立つ姿勢に等しい程に上半身を真っ直ぐに伸ばす理由は、喉を通して肺に効率的に酸素を送ろうとした結果であるという結論に達した。

 

そして、その効率的な酸素運搬(呼吸の安定)こそが、精神の安定に直結していることに気付いた。精神と呼吸は、一方の乱れが他方の乱れを誘発する関係性にある。

 

その関係性が明らかとなると同時に、瞑想の意味も明らかとなる。

端的に言うならば、瞑想は、自発的な身体的運動の制御により、精神の働きを規定しようとする営みである。

 

したがって、考えなければならない諸々の問題の全ては「いかにして呼吸を安定させるか」ということに収斂されるのである。

 

私自身、継続的で安定した呼吸ができる姿勢を色々と試してみたものの、最終的には半跏趺坐が、最も呼吸を安定させる姿勢であることに気付いた。

 

結跏趺坐は両足をしっかりと固定する為、足の血流を阻害される。個人的経験から言えば、15分を過ぎたあたりで足が痺れ始める。したがって、15分以上の結跏趺坐は苦行に他ならず、呼吸安定という本来的目的から遠ざかってしまう。

 

ちなみに、私は、単純に耐えた苦しみの総量に比例して見返り大きくなるとは考えない。むしろ、「これだけ努力したのだから、それだけ大きく見返りがある」といった所謂苦行的思考は無駄が多く、忌避すべきと考えている。

 

なぜなら、自分の行為に対して見返りを期待ないし要求しようとする態度は、人間的欲望に相違なく、肉体的にも精神的にも平穏から程遠いと考えているからである。

 

私は、快適で日常的に継続可能な取り組みの先にこそ、より良い平穏があるのではないかと考えている。精神的空間に想起される全てに操作を加えることなく、愚直に呼吸の安定に努めるのである。

 

それは一見簡単に思えるかもしれないが、それを経験した人は、それがいかに困難であるかを知っているだろう。

 

意識して生活すれば、周囲の出来事によって、呼吸を乱される自分を容易に発見することができるだろう。雑然とした世界に存在する無数の事柄が、耐えず我々の思考を刺激し、呼吸のリズムを乱すのである。当然、身体的痛みで呼吸が乱されることもある。

 

私自身、そうした乱れの様々な原因に直面した際、呼吸が乱れてしまうので、恒常的に安定した呼吸を保つことを当面の目標としている。

 

具体的には手が震えない程度の最も良い緊張状態を維持することが目標だ。 

適度な緊張は神経を研ぎ澄ませ、呼吸を安定させるので良いのだけれども、過度の期待は過度の緊張の原因であり、呼吸を乱す。

 

未だに、人間の生命維持に欠かすことのできない呼吸でさえも満足にできない現在の自分に辟易する一方で、その極めて基本的な営みにも「伸び代」が大きく残されているのだと考えれば、それほどまでに喜ばしいことは無いように思う。

コード進行からの解放

 コード進行は、幾つかのコードを規則的に組み合わせるだけで、簡単に楽曲に表情を付加することのできる音楽表現を拡張する極めて強力な要素だ。

 

典型的な進行を機械的に組み合わせることで特定のイメージを喚起させる音楽を量産することも可能だ。例えば、サンロクニーゴーを含む4度進行は典型的なもので、聴き手に簡単に「オシャレ」なイメージを与えることができる。他にも、盛り上がりの一歩前にV7を挟むことで、ドラマチックな展開を演出することもできる。

 

一方、その強力な道具は、「進行」の概念から解放されたコードが本来的に含む豊潤な響きを収奪する存在でもある。

 

和音(二つ以上の音の組み合わせ)は、コード進行などという組み合わせの妙に頼らなくとも、それ自体で十分に美しく、傾聴に値するものだ。

 

コード進行の乱用から解放された、グレゴリオ聖歌アンビエント、ドローン、エスニックミュージック、などの音楽は、単調なコードが深奥な響きを含む事実を私に再認識させてくれる。

 

そのように進行が捏造する煩わしさから自由な音楽は、享楽的カタルシスを聴き手に強要せず、日常に寄り添う家具の一部として機能する。要素が少ないゆえに、程よく興味をそそり、思考の流れを促し、日常生活を阻害しない。

 

そして、その一見無味乾に思える単調性ゆえに、誰かの自己陶酔や依存の道具として消費され辛く、強引な解釈で特定の文脈に引き込まれ辛い。

 

しかしながら、一度目をつけられて終えば、不明瞭性ゆえに、何かを語る際の叩き台として利用され易くもあるのが問題だ(まさにこのようにして)。

 

 

 

 

音楽と本質

ある音楽を好きになる際、その「好き」はその音楽の本質的良さを悟ったためなのか、あるいは単なる適用による慣れがもたらした「好き」なのかの区別は困難を極める。

 

身も蓋もないことを言って終えば、それらは明確な区別をする必要もなければ、そもそも区別など必要ないのだろう。

 

ただ、一人の音楽を聴く人間としては、音楽の枝葉の部分ではなくて、前者(本質的な良さを悟る)を目的として音楽を聴いている。しかしながら、本質主義に立脚したこの考え方自体が誤りである可能性も十分に考えられる。

 

今の私の姿勢としては、構成主義的・相対主義的に音楽に関わるよりも、本質主義的な考え方を取るほうが、より良く音楽に関わることができるのではないかと思っている。なぜなら、「音楽の普遍的本質などは存在しない」とする姿勢は、一見正しいように思えるけれども、実際的には音楽への姿勢を消極的で怠惰にしてしまうように思えるからだ。一方、「音楽の普遍的本質が存在する」とする姿勢は、本質を追求するために積極的に音楽にコミットしようする強い動機を与えてくれるため、より能動的な音楽の探求へと導いてくれる。

 

音楽に本質が存在するかという議論は、本当に難しい。

音楽の「良さ」は認識による産物なのか、音楽自体に含まれているのか、その両者の相互補完関係によって生成されるのか、さまざまな立場があるとは思う。

とりあえず、私は、実際的に音楽に関わるうえで、ポジティヴな結果に繋がる可能性が最も高そうな立場をとることにしている。

 

まあ正直に言えば、そんなことを厳密に考えようとしなくても、例えば、こんな音楽聴いたら本質の存在を信じずにはいられない。

 

www.youtube.com

 

しかしながら、そういった直観が自分を容易に欺くことも理解している。なぜなら、私は、直観はアプリオリに与えられた自明のものではなく、経験の集積によって得られた可謬的なものであると考えているからだ。

 

「知識でもなく直観でもない何かを活用して、いかに音楽の本質に辿り着くのか」というのは私にとっての永遠の課題だ。

 

第一、現時点の私では「音楽する」に十分な成熟に至っていないように思う。

なので、今は肉体的精神的に十分な栄養を与えて、大前提となる成熟に至ることが必要だと思う。堅牢な建造物が、熟練の建築家からしか生まれないように、強固な思想は、成熟した人間にしか生み出せない。

 

まずは、自らの身体を清めることが必要なようだ。

 

楽曲分析 No.2 「California 」Grimes

楽曲分析

Grimesの4枚目のアルバム『Art Angels』の2曲目が「California」

大陸を感じさせるメロディが印象的な楽曲

 

楽器を始めたばかりの人でも、簡単なので是非弾いて欲しい

ギターの人も、最初はバレーコードなんて無視して3弦から1弦まで鳴らすだけでも良い

 

 

www.youtube.com 

 

 

F♯ -   B

Ⅰ      -    Ⅳ

 

イントロ部分が最も印象的なので、そこだけ分析

コードは上のものを繰り返すだけです 

 

Ⅰ のコードの時のメロディは、5度を中心に3度と基本的

5度が鳴っていると非常に安定した調子になる

 

ポイントは、Ⅳ の時のメロディ

3度(キーの6度)から4度♯(キーの7度)の音

短く用いられるリディアンの特性音の4度♯ が鍵

 

 

才能あるミュージシャンは、難しいコード進行などは一切使わず、メロディ、音色、音の抜き差し、コーラスワークなどだけで最高の曲を書く

 

個人的には、簡単なコード循環の上で自由に抑揚のある楽曲をつくれるミュージシャンには感服させられる。

同一コード進行上で幾つものメロディを考え出せる音楽的素養は勿論、コード展開以外で楽曲を聴かせるレベルにまとめ上げる能力が必要とされるので、このタイプの楽曲は凡人が片手間につくれるものではない。

 

文句のつけどころのない楽曲なのにも関わらず、Youtube ではBad評価が3000以上ついていたのは、万国共通のサブカルアレルギーによるものなのだろうか

 

 

楽曲分析 No.1「In My Room」Beach Boys

楽曲分析

「In My Room」は1963年に発表されたアルバム『Surfer Girl』収録

Brian Wilson による流麗なメロディが特徴の楽曲

 

www.youtube.com

 

 

コード進行は以下(耳には自信がないので間違いがあればご指摘ください)

 

原曲キーは、B major 

応用し易くするためにディグリーネームで記してあります

 

 Intro

ⅠM Ⅵm   Ⅱm  V  

 

Verse

 

IM  Ⅶ bM7  Ⅱm   IM

 

IM  Ⅶ bM7  Ⅱm   IM  IM on Ⅵ

 

Ⅱm  Ⅶ → → 

 

Bridge

 

Ⅵm → V  の繰り返し

 

※Bridge後、Verse に戻る

 

 

分析

 

Intro

定番のイチロクニーゴのアルペジオなので特に分析の必要なし

 

Verse

IM の部分では、キーの1度、2度、3度から4度、5度を用いたなだらかなメロディ

 

続いての5度から6度にかけてのメロディでは、

ⅦM7 の構成音の7度(キーの6度)をメロディにあて、構成音の似たⅡmに繋いで構成音の3度マイナー(キーの4度)に着地、IM に解決すると同時にメロディもキーの3度に落ち着く。

 

ふた回し目も基本は同じで、最後のIMのベースをⅥに変更して続くⅡmに滑らかに接続する工夫がなされている。基本的な、トニック機能を持つ別のコードのルートを拝借するカタチ。Cをキーとするなら、例えば、CM on E 、F on D など

 

Bridgeは、無難なので解説の必要なし。

 

Ⅶ bM7が効果的に使用されている楽曲の為、ミクソリディアンの雰囲気が漂う

 

ビートルズでも多用されているⅦ bM7は、明るくてダルい雰囲気を出すのに良い

 

I とⅦ bM7を繰り返すだけの楽曲もある

ただし、この場合はモードなのでコード進行とは別の捉え方

www.youtube.com