捏造日記

電脳与太話

アニソンとの格闘と出会い

 

音楽オタクを自称するのであれば、安易な洋楽オタクに堕落するのではなく、洋楽・邦楽・時代などの要素に左右されず、あらゆる素晴らしき音楽を探求し愛でるのが正しい音楽オタクの正しい姿勢だと思っています。

 

ただ、正直言ってアニソンには抵抗があったことは確かです。深夜アニメでよく目にする露骨なパンチラ的描写に抵抗を感じたからかもしれません。さらに、「アニソンは作品と関連させて楽しまなければならない」という強烈な思い込みも働いて、アニソンをいわば食わず嫌いするような状態が続いていました。(一応、渋谷系のミュージシャンが最近のアニソン界隈で活躍している程度の知識はありました)

 

そんな私のアニソンに対する誤解が完全に解いてくれたのは「もってけ!セーラーふく」です。サビで合唱することから日本のアイドル文化的な要素を感じることができましたが、曲のルーツが見えませんでした。後に電波ソングの文脈に位置付けられることを知りましたが、当時はMOSAIC.WAVの名前くらいしか知りませんでした。ちなみに、この場合の「ルーツが見えない」は最高の褒め言葉です。

 

 

ヒップホップとは異なる文脈のラップ、意味不明な歌詞、強烈なスラップベース、やたらに早いテンポ、Stutterを使ってエディットされたような声、30秒近い混沌とした間奏など、あまりにも型破りだと思いました。この作品が売れたのは、奇跡だと思います。「もってけ!セーラーふく」は邦楽史上屈指の名曲と確信しました。オリジナリティと作品の質を高いレベルで両立させることは本当に難しいことです。

 

自分が今まで避けてきたアニソンの実態は、作品の世界観という制限を受けながら強烈な個性を発揮する職業作曲家の戦場でした。アニソンというジャンルの中では、もはやサビをポップにしさえすれば何でもありかのような異種格闘技的ミュータントが次々に生産されていたことに気付きました。アニソンは既存のポップ・ミュージックとは違う文脈に位置しており、それ自体で十分注目されるべき音楽だと実感しました。もし自分が日本の音楽の教科書を作ることになれば、2000年代の代表曲として間違いなく「もってけ!セーラーふく」を収録します。

 

少しだけ個人的な話。

色々と聴いてきた方だとは思いますが、メジャーな邦楽どころではBUMP OF CHICKENアジアンカンフージェネレーションなど、メジャー洋楽どころではニルヴァーナレッチリ、マイナーな洋楽どころでは海外インディやビートミュージックを模倣したような音楽を聴くのには飽き飽きしていました。(もちろん、全てが粗悪だとは思っていません)そんな状態に思えたので、最近の日本のミュージシャンを避けてきました。

 

閑話休題

 

聴けばわかるとは思いますが、アニソンはポップ・ミュージックの限界に挑戦している曲がいくつもあります。アニソンは一つの曲の中に必ずいくつかのギミックがあります。フュージョンのようなキメは勿論、同一曲内で意図的にBPMを動かしているものもあります。複雑怪奇なコード進行も頻繁に耳にします。アニソン界隈では、常識はずれのカオスが個性として認められている感じがします。もはや、ポップ・ミュージックのフォーマットでいかに型を破るかを競っているような気さえします。

 

アニソンに関してはニワカ中のニワカですが、気に入ったものをいくつか紹介します。

 

ハレ晴レユカイ」は、代表的なアニソンだと思います。ファンクでよく耳にするダサい(褒め言葉)キーボードにポップなメロディと侮っていたらコード進行の難しさに泣かされます。サビ終わりの「でしょ でしょ」のキメが楽曲のフック。


 

アニソン界の伝説、神前暁御大の作品です。

恋愛サーキュレーション」は代表曲のひとつと言っても良いはずです。

歌うようにラップすることをヒップホップ界隈ではフロウと呼びますが、Aメロは見事なフロウと言って良いでしょう。神前暁の職業作曲家としての作曲の幅には感心させられます。

 

 

 

田中秀和は、神前暁に憧れてアニソンの作曲家を志したそうです。「PUNCH☆MIND☆HAPPINESS」は完全にイかれてます。(褒めてます)

ここまでBPMを早くする必要があるのでしょうか?(褒めてます)

 

 

サビでBPMが落ちる変態的な曲。

BPMを落とすこと自体は無理ではないとは思いますが、元のBPMに戻す過程が変態的です。間奏のギターも変態です。

作曲者の広川恵一は、神前暁の弟子らしいです。

 

 

変わり種では「めざせポケモンマスター」も名曲。

幼い頃の記憶とは違ってきこえると思います。

イントロのカッティング、ギターのワウ、8分裏のアクセントを意識したメロディなど、ファンキーで良質なポップです。加えて、間奏後のコーラスワークが謎です。

これが正しいJ-Popの姿だと思います。

 

 

アニソンは、作品から切り離したとしても純粋に音楽としても鑑賞に十分耐え得るものばかりなので、アニメオタクに専有させるには非常に惜しい宝の山です。

 

個人的な話を少しすると、アニソンを収集するためにツタヤディスカスに登録しました。SpotifyApple Music にはアニソンがほとんどないからです。とりあえず、神前暁が手がけた作品のいくつか、『あんハピ♪』、『這いよれ! ニャル子さん』、『灼熱の卓球娘』などを予約しました。

 

アニメには疎いので良いものがあれば教えて欲しいです。 

日々の色々1

最近、とても尊敬している方に「いろいろと発信してみると良いよ?」と言われたので、もう少し積極的にブログを更新する気になりました。

 

最近は、飯田先生の『言語哲学大全1』を読んでいます。

門外漢でも安心して現代哲学の議論を追体験できる(ような気がする?)のでどんな方にもオススメです。比較的硬めの文章ですが、飯田先生がユーモアをいかんなく発揮されていて笑える箇所も多いです。最初は1冊の予定だった本が、3分冊になってしまった話の辺りはニヤニヤしながら読みました。

 

せっかくなので少し中身の話をしましょう。

言語哲学大全1』の導入部分で、現代哲学と言語哲学の関係を簡単に説明してくれます。ざっくり言うと、哲学は様々な概念を用いて議論を進める中で「概念とはそもそも何か?」という問題に直面したようです。そして、概念について深掘りした結果、概念を規定する機能をもつ「言語とは何か?」を考えることが必要となり、その言語を熱心に研究したのがフレーゲラッセルでしたというような具合です。それに続くかたちで、実際の言語を分析する為に統語論や意味論の話に移行していきますが、長くなるので割愛します。

 

言語という極めて身近な対象を科学的に分析することが哲学に繋がる言語哲学は何とも魅力的です。

 

今まで幾つかの哲学書を読んできましたが「哲学と文学の違いは?」と考えた結果、あまり良い考えには至れませんでした。「それの証拠は何?」と追求してゆくと容易に哲学における理論のようなものが瓦解してしまうように見えたからです。例えば、デカルトの『方法序説』はとても良い本で何度も読み返しましたが、有名な「我思うゆえに我あり」の根拠となる部分は“神頼み”のようで消化不良の感が否めませんでした。

所謂フランス現代思想の文章を読んだ時にも「こんな文学的に哲学ができるのか…」と感動しましたが、「でも、それは哲学の領域においてすべきことなのか?」と考えると、何とも言えない気持ちになりました。

 

他方、言語哲学は“言語分析を通じて科学的に哲学できる”と言えば良いでしょうか、研究対象が明確かつ研究結果の真偽判定可能なように思います。なので、従来の哲学にいかがわしさを感じている人への処方箋として言語哲学は良いのかもしれません。

 

 

全く関係ありませんが上手い落とし所を見つけられないので、昨日見かけたWilliam James の発言の抜粋で今回は終わりです。

 

the greatest discovery of my generation is that a human being can alter his life by altering his attitudes.William James

 

2018年、よく聴いた音楽まとめ

例年通り、今年も雑多に音楽を聴いた。

もちろん、現行物も聴いた。しかし、今年は50年代以前の音楽の魅力を再確認した。今の自分には、古い音楽の方が目新しく感じる。あまりに馴染み過ぎていて自然に聞こえているだけの可能性も高いが、現行のシーンと50年代以前の音楽の間には、大きな隔たりがあるように感じている。

苦手意識の強かった昭和歌謡にも手を出す日が近いかもしれない。とりあえず、筒美京平 御大の名前だけは覚えておいた。

 

 

アルバムを出す度に音楽性の変化するコーネリアスが、今回は真っ直ぐな歌モノを聴かせてくれた。我が子供や恋人などの大切な人への愛を感じさせるストレートな歌詞も従来のコーネリアスにはあまりなかったように思う。

さらに、この楽曲では大胆にもチョーキングを導入している。「泣きのギター」の代名詞とさえ言えるチョーキングは感情表現として極めて有効な奏法だが、従来のコーネリアスの感情と距離のある音楽性とは相容れないものだと感じていた。しかしながら、本作の、“泥臭くない泣きのギター”は、聴きどころの一つと言って良いだろう。

音を同時に鳴らすことを避ける演奏・ミックスが『Point』以降のコーネリアス大きな特徴の一つだが、歌モノでもその例に漏れず、一聴すると極端にさえ聞こえる譜割りのメロディをポップに聴かせてしまうのは見事と言う他ない。

 

 

 

バッハ弾きのピアニストとして名高いグレン・グールドブラームスを弾いた作品。偶然立ち寄ったリサイクルショップのレコードコーナーに300円程度で売られていたものを入手したら、望外に素晴らしいものであった。撫でるようなタッチで楽曲のメロディを一層引き立てている。

 

50年代ロックンロール、60年代のロック、70年代のパンク、80年代のポストパンク、90年代のオルタナティヴロックなど、それぞれの時代を象徴する音楽のフォロワーは絶えないが、それら年代以前のフォロワーは多いとは言えない。

最近の活動を見れば明らかなように、1950年代以前への憧憬を見せていたのが細野御大である。2017年発売の『Vu Ja De』は、50年代以前の音楽のエッセンスと細野流ごった煮サウンドを融合させて新たな境地に至ったことを感じさせる快作。現役のミュージシャンから、ロックンロール誕生以前の香りを含んだ音楽を聴けることは、本当に喜ばしい。

 

 

 Damiaに出会わずに死ぬ人生ではなくて本当に良かったとさえ思った。

自殺の聖歌として知られる「暗い日曜日」を歌った歌手Damia(ダミア)

ラジオは普段全く聴かないが、聴いた際に偶然シャンソン特集をされていて出会った。

「Les goélands(カモメ)」は、歌詞が本当に素晴らしい。

印象に残っている箇所を要約すると以下。

死んだ船乗りたちの肉体は汚い袋に包まれて海に投げ捨てられるので、彼らの魂は神の下へ行かない。海上を羽ばたくカモメを殺さないで、彼らは船乗りの魂と一つになって、船乗りたちを悼んでいるのだから

 

 

Yaejiは、ニューヨーク生まれ、ニューヨーク育ちの韓国系アメリカ人のDJ/トラックメイカー。音楽は、リズムの核となるキックとベースは硬く、ラップと歌の間を縫うヴォーカルは柔らかく、ポップミュージックとして文句なしの仕上がり。

彼女は、 突然変異的というよりかは、多様な文化の集積する都会の豊かな文化的土壌のを恩恵を受け、誕生するべくした誕生したという印象が強い。それは、ハウスは勿論のこと、トラップ、ヒップホップ、ベースミュージックなど、クラブミュージックを中心に据える音楽的背景を感じるからだ。本作のような、実験性と大衆性の限界を攻める音楽があるからこそ、ポップミュージックは止められない。

 

 


北欧ノルウェーのデュオ。上で述べたYaeji をもっとアンダーグランド寄りで、ローファイにしたような音楽性が特徴。奇妙なメロディもそうだが、時折差し込むノイズのような音は、硬派な音楽好きにはたまらないと思う。

 

(この動画の音声はキーが高く編集されている)

今年は改めてJimi Hendrix(以下ジミヘン)の作品をよく聴いた。色々な音楽を通過した後、ジミヘンを聴くと、本当に色々な発見があった。今更確認するまでもなく、彼は、世界最高峰のギタリストであり、並外れた作曲家であり、卓越した詩才を持つミュージシャンであった。「May This be Love」は、自然信仰が美しく詩に落とし込まれている。滝が心に平静をもたらし、魂を浄化するかのような描写には舌を巻いた。

 

 

60年代から活動するメンフィス出身のファンク・R&Bバンド。

この楽曲は、異様に高いテンションのまま8分続く典型的なゴリゴリのファンク。

これ以上は、言葉で表現できないので割愛。

 

 

ジョージ・ハリスンのソロの最高傑作と言われる『All Things Must Pass』からの一曲。

正直、アルバム内では「Isn't It a Pity」以外にはあまり魅力を感じなかった。しかしながら、その魅力は強烈だった。この楽曲は面白いことに、同アルバム内で同曲のアレンジ違いが収録されている。Version 1 は、フィルスペクター御大によるアレンジで、終盤に「Hey Jude」のような盛り上がりを見せる。それとは対照的に、Version 2はダウナーで、サイケデリックや後のインディロックの流れを感じさせるアレンジ。

後に気付いたことだが、Galaxie 500 が『On Fire』で本曲をカヴァーしていた。

 

安易に理解しやすいものに逃げず、目まぐるしく変化を続けるビートミュージックシーンと同期し、時に(常に)リスナーさえ置き去りにする姿勢には頭が下がる。ビョークのような存在がメジャーで活動することには大きな意義があるように思う。

個人的には、「どうしてこんなに難しい音楽が多くの人に支持されているのだろう」というのが今でも変わらないビョークの印象だ。「すごいと思うけれどアクが強くて理解できない」状態が長年続いてきたけれども、今年は楽しんで聴くことができるレベルに成長した。

どこかのインタビューで、本人がロックには馴染めず、クラブミュージック界隈に親しみを覚えるとの発言を目にしたことがあるが、ビートミュージックに声を乗せる能力は、世界で3本の指に入るだろう。

 

 

言わずと知れた呂布カルマ

「言ってることよくわからないけど、なんかカッコいい」と感じさせるリリックには、言葉では形容しがたい陶酔感がある。インタビューなどを見る限りでは、常識的な社会人という印象だが、呂布カルマというキャラクターに扮して音楽活動する際、一貫してクールに徹する姿勢は、何かと等身大が持てはやされがちな音楽シーンで異彩を放つ。

日本ヒップホップシーンでは、OMSB、DJ Krush、S.L.A.C.K.と並んでお気に入り。

 

音楽との距離感と知覚の限界

300日近くブログを更新していなかったようですが、何やら今月のアクセス数が100を超えたというお知らせを見て驚きました。今は、世間との接点が少ない生活を送っているので、もし何らかの形で“誰か”に貢献できているのであれば、とても嬉しいことです。

 

今年は音楽からうまく距離を置くことができた一年でした。

数年ほど前までは音楽情報を追うことに必死になり過ぎていて、肝心の自分の生活が疎かになっていたように思います。人生を捧げて、「誰かの作品鑑賞」に終始することは、心中的美しさがありますが、私にはあまり馴染みませんでした。今のところ、私にとっての適切な距離感は、あくまで自分自身が中心にいて、その多少の刺激となる程度がちょうど良いようです。

音楽に限らず、趣味との距離感は大変難しい問題だと思いますが、多くの人が心地よいところを見つけられると少しだけ世界が平和になりそうな気がします。「オタク」界隈では知識量が尺度として幅を利かせていることが少なくないですが、そうした客観的に量りやすいもの以外の価値がもう少し認められるようになれば良いと思います。もう少し多様な尺度が共有され、それらを相互に認め合えるようになれば、色々な事柄がより面白くなるように思います。

 

話題は変わりますが、今年読んだ本の中では、ユクスキュルの『生物から見た世界』がとても面白かったです。人は、人との類似度から「知性」を測ろうとしがちですが、人以外の生物がどのように世界を認識しているかを知れば、人間中心の「知性」という言葉が如何に現実に即していないかを知ることができます。進化の末に生物が獲得したそれぞれの特徴・特性は、人間の知覚を遥かに超えたところで機能していることが多々あります。人は最大20kHzまでの音しか知覚できませんが、オオハチミツガは、最大300kHzまでの音を知覚することができます。一体、どのように音を聴いているのでしょうか。そんなことを考えると少しワクワクしませんか?

もし、我々が、オオハチミツガ並の聴覚を手に入れることができたならば、今賞賛されている作品群をより素晴らしく、場合によっては陳腐に感じたりするのでしょうか。それと同様に、より良い目を獲得したのであれば、「ピカソは塗りが甘い」と感じるのでしょうか。当然のように、備えた感覚器官を前提として物事を考えてきた自分を少し反省させられました。

 

 

 

 

 

「語りたがり」

先日、某通販サイトで、ある音楽についての批判的レヴューを目にした。その主張は検討違いにしか思えなかったけれど、多くの人に支持されているようだった。「金を払って買ったのだから当然の権利だ」と言わんばかりの批判は驚くほどに粗雑だ。そして、彼らの矛先は得てして作品自体が悪いことに向き、作品の良さを認識できない自分自身に向くことはない。

 

そうした経緯があり、考えさせられたことを文章にしておこうと思う。

改めて確認するまでもないが、多くの人は大半の分野で門外漢である。しかし、個人が多分野の専門家になることは非現実的なので、門外漢であること自体は問題ではない。*1

問題は、門外漢の群れが「語りたがり」になろうとすることにある。

 

言論や表現の自由が保障されている為、門外漢でも思いのままに考えることや発言することが許されているが、「語りたがり」は全体の利益に寄与しているのだうか。集合知とでも表現すれば耳触りは良いが、迂闊な「語りたがり」を多分に含んだ集合知が下す「正しい判断」は極めて疑わしい。私には、慎重に議論を進めようとする良心的専門家の努力が、「語りたがり」によって台無しにされているようにさえ思える。

 

私自身、「語りたがり」にならぬように注意しなければならないと感じる場面が度々ある。一見、素人目には何の面白みも感じられないモノでも、その背景には専門家による極めて精緻な作り込みが隠れていることがある。専門家が徹底的に拘り抜いた微妙な色合いやニュアンスにすら気付けない素人が、その分野を得意げに語ろうとするのは滑稽でしかない。

 

念のため補足しておくと私の主張は、「専門家以外は沈黙しろ」ということではなく、専門外の分野について語る際に、自分が愚かな「語りたがり」とならぬように細心の注意を払うべきだということだ。専門外の分野について語るときには、「自分はこの分野を語るに相応しい知識を有しているのであろうか」と自問し、可能な限り慎重に議論を進めようとする極めて常識的な姿勢を要求しているに過ぎない。

 

もう少し現実的なレベルでの話をしようと思う。 

料理に疎くても、個人的感想のレベルで「あの店のあの料理が美味しくなかった」と言うことに問題ない。しかし、料理についての一般的なレベルでの見解を述べるには、慎重な姿勢を取るべきだということだ。個人的見解から一般的見解への飛躍がある人は少なくない。(そもそも、私の文章にも同様の飛躍があるかもしれない)

 

まあ 身も蓋もないことを言ってしまえば、私自身も「語りたがり」についての「語りたがり」に過ぎないが。

 

 

以下余談。

 

批判されていた音楽家は、批判に相当に傷心していたようだったので、素晴らしい音楽を制作した彼に、ファンレターでも出そうかと考えている。

 

 

 

*1:無論、専門家に近付こうとする営みは重要であるけれども

2016年よく聴いたもの

世界はいつでも面白い音楽で満ちていると思っているけれども、

今年は、例年に比べて新しい音楽に手を出さない年だった。

同時代性に固執せずに、本当に良いと思ったものを時間をかけて何度も聴きこうと考えたからだと思う。

御託もほどほどに、2016年の音楽によく聴いたものを紹介しよう 

可能な限りコメントも付記しようと思う。

 

 

中東+トリップホップ

98年からレバノンで活動するグループ

中東の訛りのメロディやリズムの中毒性にやられた。

 

 

こちらは古い作品。

 一部ファンの間では、『Double Fantasy』 におけるYoko Onoの楽曲は「捨て曲」らしいが、賛同しかねる。

私には、John Lennon よりもYoko onoの楽曲の方が魅力的に感じる。とりわけ「Kiss Kiss Kiss」と「I'm Your Angel」は同じ作者が同じ年に書かれた曲には到底思えない。前者は、時代の最先端をゆくポストパンク/ニューウェーヴの萌芽であり、後者は完成されたポップ・ミュージックである。

Yoko Ono は様々な理由で世界的レベルで嫌悪されているようだけれども、少なくとも音楽に関しては非常に優れていると思う。これほどまでに優れた曲を自分で書き、優れたリズムで歌うことのできるミュージシャンは限られている。英語の発音などは瑣末な問題に過ぎない。技巧的でなく、強引に感情を掻きたてることもない。それでいて、聴き終わった後には少し前向きになれるお手本のようなポップ・ミュージック

 

 

 

 

ブログにも書いた南アフリカのビートミュージックGoqmの代表的ミュージシャン

その後、いくつか Goqmに関する記事に目を通したけれども、そのどれもGoqmの最も興味深く重要な点が抜け落ちてた。

むしろ、誤った記述していたと言っても良い。具体的に言うならば、それらの記事ではGoqmがUK Grimeから影響を受けていると書かれていた。

しかしながら、GoqmのミュージシャンはUK Grimeからの影響は受けてはいない*1。リスナーは、異なるミュージシャンの異なる楽曲に類似する要素を発見した際、それらを恣意的に繋ぎ合わせて「文脈化・体系化」しようとするものだけれども、実際がそれと異なっているというのは多々あることだ。

 

 

 

 

素朴な弾き語りも偶には良い。

 

 

京都を中心に活動するバンド/グループSupersize me 

彼らの音楽は、アンビエントであり、音響芸術であり、ポップ・ミュージックでもある。限られた本当に良い音楽の中で度々見られる、コードの制約がまるでないかのように自由に跳躍するメロディは、彼らの楽曲がポップ・ミュージックとしていかに優れているかを物語っている。ギターのいるバンドの音楽は、高性能のヘッドホンで大音量で聴くと中高音域の煩さに耳に痛くなることが多々あるのだけれども*2、彼らの音楽は相当に音量を上げてもあまり気にならないのは、意図的に脱ギターバンド的音源編集を施しているからであろうか。

 


 

かつてCocteau Twins が在籍し、今を時めくGrimesが所属するレーベルでもある4ADに所属するミュージシャン。新しい人なので、アルバムはまだ発表していない模様。

イントロのE/D- D 進行が耳に残る。


 

最近人気のHiatus Kaiyote を少し訛らせたようなイスラエルのグループ

独特の囁くようなメロディとリズムの訛りに心奪われた。

 

 

 

 

 

*1:GoqmのゴッドファーザーDJ Lug がそのように発言している

*2:MBVでさえも大音量で聴くと煩く感じる

コード進行からの解放

 コード進行は、幾つかのコードを規則的に組み合わせるだけで、簡単に楽曲に表情を付加することのできる音楽表現を拡張する極めて強力な要素だ。

 

典型的な進行を機械的に組み合わせることで特定のイメージを喚起させる音楽を量産することも可能だ。例えば、サンロクニーゴーを含む4度進行は典型的なもので、聴き手に簡単に「オシャレ」なイメージを与えることができる。他にも、盛り上がりの一歩前にV7を挟むことで、ドラマチックな展開を演出することもできる。

 

一方、その強力な道具は、「進行」の概念から解放されたコードが本来的に含む豊潤な響きを収奪する存在でもある。

 

和音(二つ以上の音の組み合わせ)は、コード進行などという組み合わせの妙に頼らなくとも、それ自体で十分に美しく、傾聴に値するものだ。

 

コード進行の乱用から解放された、グレゴリオ聖歌アンビエント、ドローン、エスニックミュージック、などの音楽は、単調なコードが深奥な響きを含む事実を私に再認識させてくれる。

 

そのように進行が捏造する煩わしさから自由な音楽は、享楽的カタルシスを聴き手に強要せず、日常に寄り添う家具の一部として機能する。要素が少ないゆえに、程よく興味をそそり、思考の流れを促し、日常生活を阻害しない。

 

そして、その一見無味乾に思える単調性ゆえに、誰かの自己陶酔や依存の道具として消費され辛く、強引な解釈で特定の文脈に引き込まれ辛い。

 

しかしながら、一度目をつけられて終えば、不明瞭性ゆえに、何かを語る際の叩き台として利用され易くもあるのが問題だ(まさにこのようにして)。