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音楽と本

瞑想と呼吸

数か月ほど前から、毎日瞑想をすることを心掛けている。

現段階で気付いたことは、瞑想は呼吸が全てであり、呼吸そのものだということである。

 

雑念の排除や思考の客観的認識などの「瞑想的」で大仰な心掛けは、呼吸という行為の延長線上に存在する結果に過ぎず、枝葉でしかない。

 

禅宗が座禅の姿勢に帰結した理由も、安定した呼吸を求めた結果であるように思う。

座りながらにして、立つ姿勢に等しい程に上半身を真っ直ぐに伸ばす理由は、喉を通して肺に効率的に酸素を送ろうとした結果であるという結論に達した。

 

そして、その効率的な酸素運搬(呼吸の安定)こそが、精神の安定に直結していることに気付いた。精神と呼吸は、一方の乱れが他方の乱れを誘発する関係性にある。

 

その関係性が明らかとなると同時に、瞑想の意味も明らかとなる。

端的に言うならば、瞑想は、自発的な身体的運動の制御により、精神の働きを規定しようとする営みである。

 

したがって、考えなければならない諸々の問題の全ては「いかにして呼吸を安定させるか」ということに収斂されるのである。

 

私自身、継続的で安定した呼吸ができる姿勢を色々と試してみたものの、最終的には半跏趺坐が、最も呼吸を安定させる姿勢であることに気付いた。

 

結跏趺坐は両足をしっかりと固定する為、足の血流を阻害される。個人的経験から言えば、15分を過ぎたあたりで足が痺れ始める。したがって、15分以上の結跏趺坐は苦行に他ならず、呼吸安定という本来的目的から遠ざかってしまう。

 

ちなみに、私は、単純に耐えた苦しみの総量に比例して見返り大きくなるとは考えない。むしろ、「これだけ努力したのだから、それだけ大きく見返りがある」といった所謂苦行的思考は無駄が多く、忌避すべきと考えている。

 

なぜなら、自分の行為に対して見返りを期待ないし要求しようとする態度は、人間的欲望に相違なく、肉体的にも精神的にも平穏から程遠いと考えているからである。

 

私は、快適で日常的に継続可能な取り組みの先にこそ、より良い平穏があるのではないかと考えている。精神的空間に想起される全てに操作を加えることなく、愚直に呼吸の安定に努めるのである。

 

それは一見簡単に思えるかもしれないが、それを経験した人は、それがいかに困難であるかを知っているだろう。

 

意識して生活すれば、周囲の出来事によって、呼吸を乱される自分を容易に発見することができるだろう。雑然とした世界に存在する無数の事柄が、耐えず我々の思考を刺激し、呼吸のリズムを乱すのである。当然、身体的痛みで呼吸が乱されることもある。

 

私自身、そうした乱れの様々な原因に直面した際、呼吸が乱れてしまうので、恒常的に安定した呼吸を保つことを当面の目標としている。

 

具体的には手が震えない程度の最も良い緊張状態を維持することが目標だ。 

適度な緊張は神経を研ぎ澄ませ、呼吸を安定させるので良いのだけれども、過度の期待は過度の緊張の原因であり、呼吸を乱す。

 

未だに、人間の生命維持に欠かすことのできない呼吸でさえも満足にできない現在の自分に辟易する一方で、その極めて基本的な営みにも「伸び代」が大きく残されているのだと考えれば、それほどまでに喜ばしいことは無いように思う。