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Personal Fabrication

音楽と本

「語りたがり」

先日、某通販サイトで、ある音楽についての批判的レヴューを目にした。その主張は検討違いにしか思えなかったのけれども、多くの人に支持されているようであった。「金を払って買ったのだから当然の権利だ」と言わんばかりの批判は驚くほどに粗雑である。そして、彼らの矛先は得てして作品自体が悪いことに向き、作品の良さを認識できない自分自身に向くことはないのである。

 

そうした経緯があり、考えさせられたことを文章にしておこうと思う。

 

改めて確認するまでもないが、多くの人は大半の分野で門外漢である。しかし、一個人が多分野の専門家になることは非現実的であるし、門外漢であること自体は問題ではない。*1

問題は、門外漢の群れが「語りたがり」になろうとすることにある。

 

言論や表現の自由が保障されている為、門外漢でも思いのままに考えることや発言することが許されているのだけれども、「語りたがり」は全体の利益に寄与しているのであろうか。集合知とでも表現すれば耳触りは良いが、迂闊な「語りたがり」を多分に含んだ集合知が下す「正しい判断」は極めて疑わしい。私には、慎重に議論を進めようとする良心的専門家の努力が、「語りたがり」によって台無しにされているようにさえ思える。

 

私自身、「語りたがり」にならぬように注意しなければならないと感じる場面が度々ある。一見、素人目には何の面白みも感じられないモノでも、その背景には専門家による極めて精緻な作り込みが隠れていることがある。専門家が徹底的に拘り抜いた微妙な色合いやニュアンスにすら気付けない素人が、その分野を得意げに語ろうとするのは滑稽でしかない。

 

念のため補足しておくと私の主張は、「専門家以外は沈黙しろ」ということではなく、専門外の分野について語る際に、自分が愚かな「語りたがり」とならぬように細心の注意を払うべきだということである。専門外の分野について語るときには、「自分はこの分野を語るに相応しい知識を有しているのであろうか」と自問し、可能な限り慎重に議論を進めようとする極めて常識的な姿勢を要求しているに過ぎない。

 

少し具体的に説明しようと思う。 

料理に疎くても、個人的感想のレベルで「あの店のあの料理が美味しくなかった」と言うことに問題ない。しかし、料理についての一般的なレベルでの見解を述べるには、慎重な姿勢を取るべきだということだ。

個人的見解から一般的見解への飛躍がある人は少なくない。(そもそも、私の文章にも同様の飛躍があるかもしれない)

 

 

まあ身も蓋もないことを言ってしまえば、私自身も「語りたがり」についての「語りたがり」に過ぎないのだけれども。

 

 

以下余談。

 

批判されていた音楽家は、批判に相当に傷心していたようだったので、素晴らしい音楽を制作した彼に、ファンレターでも出そうかと考えている。

 

 

 

*1:無論、専門家に近付こうとする営みは重要であるけれども