捏造日記

電脳与太話

マイルス・デイヴィスの歌

インストゥルメンタルヒップホップの伝説、DJ Krush があるインタビューで、「マイルスは自分のしていたことをずっと昔にしていた」と語っていた。

 

マイルスとの出会いは高校生の時。初めて聴いた時の印象は、中高音が耳に刺さるようで痛いという感じだった。恐らく当時使用した安価なイヤホンが原因だと思う。しかし、音楽を聴く人間としてマイルスから逃れられるはずもなく、So What に行き着いた。あの独特のモーダルな空気に馴染むまで時間を要したが、毎年必ず何度か聴くアルバムになった。ただ、今となっては、楽器を演奏する能力の乏しかったあの頃の自分は、雰囲気を楽しんでいるに過ぎなかったと思う。*1

 

ここ最近、楽器を比較的真面目に練習するようになり、ジャズの名手と言われるプレイヤーの演奏を分析的に聴くことが多くなってマイルスを部分的に理解できるようになってきた。

多くのジャズ系のミュージシャンは、音数が多すぎると感じる。加えて、複雑なコード進行の上で歌うことすら困難な複雑なスケールを使用するので、演奏からメロディの輪郭が見えてこない。大衆を踊らせていたスウィング・ジャズが、ミュージシャン同士の競い合いへと変容したジャズの歴史を鑑みれば当然の帰結かもしれないが、歌を好む自分の肌には合わない。

 

他方、マイルスは、作曲的な方法論でアドリブを取るのがとにかく上手い。マイルスは、トランペットを持った“歌の人”だった。極めて優れたヴォーカリストが口を開いた瞬間に聴き手を圧倒的するようなそれをトランペットで再現する。

聴いてしまえば簡単に思えるそれは、コード進行全体がクリアに見えていることは勿論、コード間の音の関係性を深く理解していないとできない離れ業だと言える。トライアドの音を中心に据えてコード感の提示を求めるジャズで、少ない音数で、コード間を縫うように美しいメロディを奏でることは本当に難しい。まして、それをアドリブでするとなると、想像を絶する難しさだと思う。

言うまでもなく、マイルスはそれを得意としていた。だからこそ、マイルスの音楽は、曲を「アドリブの素材」としてではなく、アドリブ部分も含めて全体を退屈することなく歌のように聴くことができる。

 

その考えに基づくと、マイルスがモードジャズに行き着く理由がよくわかる。

モードであれば、コーダルなアプローチであればテンションと言われる音でさえも自由にロングトーンとしても自由に伸ばすことができる。必然的にコードの制約を受けてしまうコーダルなジャズでは、歌いづらかったのだと思う。

 

マイルスの歌い方は、コードに対して何度でアプローチをしているといった分析をするだけでは見えてこない。それでは所謂ジャズ的なアドリブになってしまう。もっと根本的な歌の捉え方が必要なのかもしれない。

 

マイルスはジャズの人という共通認識があるが、自分自身のことをジャズミュージシャンではないと考えていたらしい。実際、常に“ジャズではない何か”を追い求めていたように見える。現在、本人の思惑とは異なる結果となってしまったが、彼の音楽的功績そのものが「ジャズ」と呼ばれるようになったのだから仕方がない。

 

あまりにも偉大なマイルス。未だ足跡や影さえも見えそうもない。

 

 

*1:そのようなニワカにも圧倒的な説得力で聴かせてみせるのがマイルスの素晴らしさ