捏造日記

電脳与太話

テニスコーツ 「Baibaba Bimba」コード進行・分析メモ(+インディポップの過去話)

普段これ系のインディポップはコピーしないが、手慰みに。

以下の循環を繰り返すシンプルな曲。昇るコード進行は神聖な響き。

Dadd9 - Dadd9 on F# - G - A7 

 

 

そういえば、これ系を聴いていた時もあった。今は心が汚れてしまったので、過去のモノ全てに共通して見られる郷愁以上の何かを見出すことはできないけれども。「インディポップ」というジャンルを知らず、出会うもの全てが新鮮に見えた。Sarah Recordsとか、Rocketshipとかその周辺の再評価が進んだ辺り。

 

コード進行は、B♭ - E♭ の繰り返し。

やはり、add9の響きからインディポップの香りがする。


私がインディポップへの興味が薄れた理由は、音楽的には、sus4やadd9を使ったギターリフ、ガールズバンド、コーラスワークなどがパターン化されていることに気付き、面白みを感じなくなったことが大きい。また、音楽以外には、MVや歌詞で描写される「雑貨屋にいる女の子」的な価値観に馴染めなかったこともある。色あせたフィルム、自転車、風船、砂浜などが頻出だったように思う。

 

この曲のAメロも、Aadd9 - Dadd9 を繰り返すもの。 

 

悪口になる手前でおしまい

Bjork「Human Behaviour」 分析メモ

一聴してわかる通り、Bjorkの曲は普通ではない。専門的な音楽知識がない人でも明らかに何かが違うことに気付くと思う。その直感は確かで、実際に分析をしててみると、不可思議な箇所が浮かび上がってくる。

 

最近、「Human Behaviour」を分析した。

ベースのループは、Am7(A、E、C、G)提示している。

曲のメロディは4度(D)を中心に据えて、♭6度の音が登場することから、現在のモードがAエオリアンであることがわかる。

しかし、 カウベルのような楽器がメジャーの音(C#)の音を鳴っているので、全体でエオリアン+M3度という奇妙なモードを構成している。M3度とm3度の共存はブルースの常套句だが、ブルース以外のジャンルではあまりお目にかかれない珍しい音使いである。

更に、サビでは次にB♭モードに移行する。

ベースは、Am7のベースラインをB♭に平行移動させたものをループする。マイナー系のループと考えれば良い。一方、メロディは明らかにメジャー系のそれで、M3度とM7度を含んでいる。つまり、複数のモードが同時に走る構造、ポリモーダルとなっている。さらに、そこにカウベルのような音でm3度とM3度のフレーズが重なる。M7度と♭7度、m3度とM3度の共存は非常に珍しい。いや、珍しいというより、自分はこの曲以外に知らないと言った方が正しい。

 

 

 

もう降参だよ...

 

コード進行メモ 山本精一「ラプソディア」

前衛音楽愛好家の作るポップスは、格別の味わい。名曲。

ギターを所持andコード譜が読めるandこの曲が弾きたい、という3つの条件を満たす日本人がきっと1000人くらいいるはずなので、その人たちの助けのために。

Verse 1

Gsus4 

 

Verse 2

C - C#dim - Dm9 - C on G

C - A7 - Dm9 - C on G

 

ブリッジは放置。 

 

前衛音楽家という印象が強いが、綺麗なコード進行で曲を書いていて意外だった。コード理論に通じた人は、単なる音楽の1要素に過ぎないコード進行の複雑性に過度に注目して音楽の良し悪しを語ることが多い。しかし、コード進行の複雑性とは無縁のよくあるパターン(進行)を使用しても個性が滲むものこそが本物。

 

山本精一は日本のルーリード的な立ち位置かもしれない。ブリッジの異物感には、「ラプソディア」と似たものを感じる。

20190823 電脳スクラップブック

タイトル通り、ここ最近で興味を持ったことを切り貼りするスクラップブックのようなものを作ってみました。見る人が見れば面白いかもしれません。

 

・『夜の木』

全てがハンドメイドという画期的な絵本。手漉き紙に、シルクスクリーンで一枚ずつ刷られ、製本は手製本。インドのチェンナイ郊外の工房で、一冊ずつ丁寧に仕上げられました、まさに工芸品とも言うべき絵本(シリアル・ナンバー入り)。ずっと手元においていつまでも眺めていたい一冊です。

 

・音痴に関する短いドキュメンタリー

一般向けのドキュメンタリーだと思うのですが、「音痴」は存在するが絶対的ではなく、相対的に決定されることにまで踏み込んでいて驚きました。1953年に440ヘルツの標準A音が制定されたものの、フランスが442ヘルツ、ドイツが444ヘルツを基準とすることがあるなどは面白い指摘でした。そして、マイルス・デイヴィスの発言が引用されていたことからあることを思い出しました。ハーヴィー・ハンコックが伴奏で致命的なミスをした際、マイルスがそれに機敏に反応し、まるで魔法のようにハーヴィーのミスを「正しい音」にしてしまったという逸話です。

 

・ガスリー・ゴーヴァン

様式化されたギターソロに飽き飽きしている自分が再びギターソロで驚くことになるとは想像していませんでした。ガスリー・ゴーヴァンはフュージョン界隈で神格化されている近年では絶滅危惧種ギターヒーローですが、正直自分にとっては、彼の微分音への関心以外にはあまり興味がありませんでした。伝統的なヴァイオリンやチェロは勿論、ジャコが70年代にエレキベースにフレットレスを大々的に導入しているにも関わらず、ギターにもフレットレスの波が到来しないのは長年の不思議です。


余談もほどほどに驚かされたのはこの映像です。トム・モレロの代名詞的なスクラッチ奏法をしていないにも関わらず、スクラッチのような音が鳴っている謎です。また、グライム界の神ことディジー・ラスカルが、ガスリーを取り上げたことにも驚きです。

 

そういえば、マイケル・ジャクソンのライヴにグレッグ・ハウが参加していたこともありましたね。早弾き新世代の彼にとって、「エディのソロは簡単過ぎる」と言わんばかりに「Beat It」のソロを軽々と弾きこなしていたのが印象的です。ちなみに、私はグレッグ・ハウのこの映像を観て、「ギターの達人を目指すのはやめよう」と思いました。ジャズ・フュージョン界隈はパット・マルティーノ、ジョンスコなど、超人だらけで恐ろしいです。マイナーコンヴァージョンなど、「発想は理解できるけど、一体どのように練習し、どれだけの時間をかけて血肉化したか」を考えるだけで目眩がします。


 

 

・ 日本語ヒップホップ


特に2000年代以降顕著に感じることなのですが、日本ではロックが個人の感情の発露としての機能を失い、良くも悪くも大衆に取り込まれた印象を受けます。様式化された世間からの逸脱はもはや「悪の文化」ではなく、いわゆる「ロック的」なものを求めるリスナーと「ロック的」なものを演奏するアーティストの間の共犯関係によって「ロック的」なものが生産・消費され続けている光景は自分には少々退屈です。

一方、最近の日本語(≠日本のヒップホップ)のヒップホップは面白いと思います。かつての日本のロックが誇っていた大衆迎合よりもアーティストが自己表現を優先する態度が見て取れます。そして、その価値観がyoutubeのコメント欄のような市井でも共有されることが見て取れます。勿論、ヒップホップシーンの全員がそうだとは思いませんが、「アンダーグラウンドで認められてこそ本物」という価値観はヒップホップに携わる多くの人が共有しているような印象を受けます。MCバトルの動画を見ていても思うことで、リスナーが熟練のMCと素人MCの試合を大量に視聴することで、定型的な表現を繰り返す没個性なMCの存在に気付き、そうした人たちが自然淘汰されやすい仕組みができているのは面白いです。サンプリング音源やリリックなどの知識が豊富にある人が「ヒップホップIQが高い」と持て囃されています。オタク文化の香りが残っていて好感が持てます。

 

 

 ・宮崎駿

先日、偶然テレビで『千と千尋』流れているのを目にした際、宮崎作品には、人間が本性的に孕む矛盾に厳しい眼差しを向けながらも、最終的には「人が生きること」を肯定する作風に大きな魅力を感じました。私は「一人じゃない」とか「みんな違ってそれで良い」といった標語が肌に合わないへそまがりなので、リアリズムに立脚したロマンチストという宮崎イズムに感銘を受けました。

曖昧に混沌と一緒に話しているうちに方針が決まる。相手の考え方が間違えてるよとか、そういうことを僕らはしません。これは昔の村のやり方です。それでなんとなく行くんです

 

ジブリの全ての作品に通底するメッセージはありますか」という質問に対する回答。

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったものでして、基本的に子供達に「この世は生きるに値するんだ」と伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないという風に思ってきました。 そして、今でもそれは変わっていません

 

 

細野晴臣藤幡正樹の対談

https://www.yebizo.com/jp/archive/forum/dialogue/03/dialogue7.html

今あらためて本を書く必要はない。それでも書く意味があるのは、すでに知られているはずの事柄同士にリンクを貼ることなのだと思ったのです。「僕はこれとこれがこういう関係にあると思う」と。先ほどの話はまったくそのとおりで、今はとにかくリンク切れだらけの世界。だからある程度経験を積み、伝承することに意味を感じる人間は、リンクを貼り直すということをしなければならないのかもしれません。

 

・『ジョアン・ジルベルトを探して』

隠遁していたボサノバの王様ジョアンを求め、彼の大ファンであるドイツ人ジャーナリストのマーク・フィッシャー*1はブラジルを奔走したが天運に恵まれず、その旅の体験を本に認めた後に自殺した。そして、そのマークの本を読んだ監督がジョアンを探す映画を撮影するという作品。これが悪い映画なはずがないでしょう!

・ほくさい音楽博

奏者と聴衆という境界線が非常に曖昧な「民族音楽」というのは非常に良いものだと改めて思います。私は民族音楽に限らず、ローファイなどのような「上手くない」音楽がとても好みです。音楽という文化を奏者or聴衆という二分法で区切るのは非常に勿体無いことだと思います。その点では、まるで演奏に参加しているかのように掛け合いや踊りのある日本のアイドル文化は良いものだと思います。そこに美男美女が歌って踊るというコンテンツ性に加えられるのですから、ファンが熱狂する理由がよくわかります。そんな彼らの踊りに「ケチャ」という民族音楽から取られた名前付けられているのは果たして偶然なのでしょうか。

ジャワ舞踊的な静的な踊りも魅力的です。

こんなにも素晴らしいイベントがあるとは知りませんでした。ヴァーチャルな世界の魅力が増す中、肉体的経験の得られるイベントは貴重です。「みんぱく」には何度も通っていますが、実際の楽器に触れられずに非常に歯がゆい思いをしてきたので、とても羨ましいです。機会があれば(という人の行動力は極めて怪しいが...)、是非参加したいと思います。

学校教育の体育(=運動)や音楽にも通ずる問題だと思うのですが、音楽や体育において明確な「上手さ」が定義されてしまうと、大半の「上手くない」人たちがそれらから距離を置いてしまうという問題があるように思います。しかしながら、音楽や体育(=運動)はヒトの歴史から見て、人間的生活から切り離すことができない重要な要素です。種々様々な表現手段が存在する現代社会のあらゆる場面で音楽が未だに重用されていることは現代の不思議です。またそれはヒトに限った話ではなく、一見音を扱う必要がないように思えるアシカがリズムをビートを知覚するという能力を見せていることからして、動物にとって音楽は何らかの重要な役割を果たしているのでしょう。

 

どうぶつの森

どうぶつの森シリーズはBGMが非常良いのですが、公式サントラが充実していないのが残念です。様々な雰囲気を演出するために様々な音階が使われていて面白いです。

リンクの曲をはじめて耳にした時、「ジョンケージに似てる」と思いました。任天堂所属の片岡真央と朝日温子がメインコンポーザーという情報はありましたが、どの曲を誰が作ったのかまでは不明です。ゲームミュージックは広大な沃野と思いつつ、まだまだ手をつけられていない悲しい状態です。例えばマリオのメインテーマなど、一体どこに由来するのか不思議で仕方ないです。

*1:界隈で盛り上がっている思想家とは別

ラキムのリリック

ラキムの日本語wikiの誤訳(解説?)が中々に酷いと思った。

「ドント・スウェット・ザ・テクニック」のリリックには、『科学者たちは本質を見出そうとしている。哲学者たちは未来を予測しようとしている。そのために、連中は研究室に篭りっきりだ。しかしやつらは、それを呑み込めなかったし、そうする資格も持っていなかった。自分の思想は、自分の音楽を聴く者たちのためにある。さらに自分に反対する人々のためにある。すぐに受け入れられるようなものではない』

ラキム (2019年7月現在)

 

これが恐らく上の訳の箇所のリリック。

They wanna know how many rhymes have I ripped and wrecked

But researchers never found all the pieces yet

Scientists try to solve the context

Philosophers are wondering what's next

Pieces are took to labs to observe them

They couldn't absorb them, they didn't deserve them

My ideas are only for the audience's ears

 

上の日本語訳には「本質」という言葉が出てくるが、そのような表現はない。「連中は研究室に籠もりっきりだ」に対応する表現もない。全体を通して、安っぽい科学者叩きのような印象を受ける。

原文に対応した自分の解釈では、ラキムは、リリックを仔細に分析しようとする科学者を揶揄することで、自身の音楽に「科学的」には分析され得ない“何かが”隠されていることを仄めかしているのだと思う。

 

そうすると、上のリリックに続く部分を綺麗に解釈できる。

Letters put together from a key to chords

I'm also a sculpture, formed with structure

恐らく、この文脈のkey は鍵盤を意味している。鍵盤を同時に2つ以上叩くと和音が生まれる。それを比喩的に用いて、文字の組み合わせが生み出す和音について述べている。そして、それに続く「構造のもとに誕生した彫刻」という表現は、まるでプラトンイデア論を想起させる。言葉の和音がまるで人知を超えた存在であることを匂わせる。もしかすると、ラキムが科学者や哲学者を嘲笑った理由は、彼らが「神の創造物(=言葉の和音)」を強引に人間界の文脈に押し込んで理解しようとしているからなのかもしれない。示唆に富む非常に美しいリリックだと思う。

制限・自由・内田裕也

彼女との生存確認程度のLINEを除けば、ここ1週間~2週間くらいは無言で生活する日がほとんどだった。社会的には間違いなく「おしゃべりな人」という印象をもたれていると思うが、昔から過剰接続を忌避しているきらいはある。だから、高校生の頃と変わらず同じガラケーを使っている。連絡が必要などの特別な用事がない限り、外出時に携帯を持ち歩くこともない。

 

今は、自分の足場を固める作業に集中している。音楽に集中したい気持ちは山々だが、集中するための足場を確保する必要がある。そんな事情で現在は、批判意識の薄い知っている音楽を垂れ流すだけの音楽愛好家と化している。同時代的な「新しい」音楽の発見は明らかに減ったが、新しいもの探し競争に参加する気も起きないので、これで良いと思っている。音楽に限らず、人が何かを際限なく消費しようとする姿は美しくない。無限に等しいリソースが安価に手に入る時代だが、自分の感覚はそれと逆行していて、制限の多い時代の素晴らしさを感じている。

昔は「制限」と聞くと不自由さを連想していたが、制限と美しさの関係性に気付いてからは、制限を肯定的に捉えるようになった。例えば、丁寧に刈りそろえられた芝は長さの制限をかけられている。楽器は音程の制限をかけられている。ヒップホップは、韻という言語的制限と、サンプリングという音楽的制限に美を見出した。どちらかと言えば、モノ的な例をあげたが、それは観念的な対象に抱く美しさの根底にも確かに制限がある。自らの欲望に制限をかけることなく、次から次に肉体関係を結ぶ女性は「尻軽」として軽蔑される。逆に、一途、添い遂げるなど、強い愛情を表す表現の根底には強い制限がある。愛情を「“特定”の誰かに対する“特別”な想い」と定義すると、愛情の定義にふたつもの制限が隠れていることがわかる。つまり、制限のない愛情は存在しない。そのままでは混沌としている世界に補助線を引き、制限をかけることで美しさが立ち昇る。したがって、その観点からすれば、先に触れた「際限ない消費意欲」と「無限に等しいリソース」の組み合わせが無制限そのもので、美しさと対極にあることがよくわかる。

 

自由な時代を生きる人々は、「しぇけなべいべー」と前時代的な台詞を連呼する内田裕也の不自由さを笑ったが、その不自由さは、彼が自らの人生に課したロックンロールという制限の現れだった。晩年の内田裕也は、車椅子に座りながらロックンロールの不自由を謳歌してみせた。そこには「自由こそが至上の喜びである」と妄信する人々には理解できない制限の美しさがあった。今更ながら、大学生時代に私淑していた先生の「何でもありは自由ではない」という言葉の意味を噛み締めている。家族や友人が目の前にいるにもかかわらず無意識にスマホに手が伸び、SNSまとめサイトを逐一チェックする現代人と、ロックンロールの殉教者、どちらが真に自由だろうか。今の私の気分は、内田裕也に傾いている。

 

 

しぇけなべいべー!

最近のこと

SNSアカウントを消した。日々の発見をノートにまとめていて、そのアウトプットの場として活用していたが、負の面が多いと感じたので消した。改善可能な悪癖は可及的速やかに排除すべしの精神に従った。暇つぶしにしては退屈で、有益な情報を得るにはノイズが多すぎた。SNSをやめて、読書、勉強、楽器の練習ばかりしていると視野が狭まるかもしれないが、リアルで積極的に行動すれば解決すると思われる。勿論、全てが悪だったという訳ではなく、多言語を理解し、熱心に数学や古典文学を勉強している中学生には感銘を受けた。半可通や“出来てしまう人”に見られる衒学趣味なども全くなく、素朴な学びを途方もなく積み重ね続ける彼の姿勢には頭が下がる。ふと思い出したが、半年ほど前、彼もSNSアカウントを消していた。

 

主に音楽と数学の情報を得ていたが、音楽に関してはコミュニティ独特の空気感が肌に合わなかった。悪気はないとしても、調べたら明らかに誤りとわかることを(悪気はなくとも)事実であるかのようにツイートする人たちと、それを支持する人たちの構造を見ていられなかった。浅学な自分から見ても、まともに音楽を勉強したことがないであろうことがわかる人たちが、“それっぽく”振舞っていて、「違うだろjk(死語)」と思うことが多かった。それ系の人たちは色々な話題に噛み付いているのだが、健全な議論のために押さえておくべきことへの理解が不足していると感じた。

 

例えば、古い日本の曲の分析に対して「古い日本の音楽は平均律に基づいて分析しても意味がない」と批判している人がいたが、彼(彼女)は、「中全音律を用いて作曲されたモーツァルトの曲を平均律に基づいて分析することに意味がないのか」という問いに答えるべきだと思う。確かに完璧に分析するのであれば、モーツァルトの使用していた調律に合わせて分析をすることが必要だが、現状、そのような分析は一般的とは言えない。異なる調律も用いて分析することで失われるものはあるが、保たれる要素も多くある。例えば、異なる調律をベースとしたある音とその3度の関係は、確かにズレているが、それを“同じ音”と許容することで同じ理論のもとで扱うことが可能になる。

 

厳密さを求め始めると、基準音についても考えなければならない。A=440hzと定められたのは100年ほど前のことなので、それ以前の曲については440hzに基づかない何らかの理論が必要となる。しかしながら、440hzから1hzでもズレたらそれはAではないと定義する理論は厳密だが、実践的ではない。少なくともメロディの音型を分析するのであれば、基準音を440hzと設定し、平均律に基づいた分析でも“完璧ではないが十分に役に立つ”。

理論は厳密にしすぎると、適用範囲が狭まる。逆に、厳密さを犠牲にすることで“あそび”が生まれ、適用範囲を広げることができる。音楽理論もそれは同じで、“あそび”を持たせることでさまざまな音楽を現代的な音楽理論を使って分析することができるようになる。例えば、楽譜は、ある法則に従って実際の音楽を音符という記号に還元したものなので、実際の音を完全に再現してはいない。つまり、記号化に伴って情報が抜け落ちている。しかし、楽譜は今日でも“完璧ではないが十分に役に立つ”ツールとして絶大な威力を発揮している。

長くなり過ぎたが、“それっぽい”批判をした気になっていた彼(彼女)の発言からは、考察不足と衒学趣味が見て取れたので、とても残念な気持ちになったという話。恐らく、アナライズをした経験さえないと思う。「自分で手を動かしたことあるか」、「代案を出せ」と言いたい。彼(彼女)は、「古い日本の音楽は平均律に基づいていない」という情報をどこかで獲得したのだと思われるが、情報はじっくりと検証しなければ毒になることも多い。良くも悪くも情報は認知を歪める。確かに古い日本の音楽は完全に平均律ではないので、その情報は正しいのだが、そこから「既存の音楽理論の視座から古い日本の音楽を分析することに意味がない」という結論を導くことには論理の飛躍がある。しかしながら、こんな事に遭遇するたびに、その都度マジレスしていたら人生が終わる。謙遜などでは全くなく、自分もまだまだ浅学なので精進しなければ...。個人的に、hz、centレベルで厳密な楽曲分析ということには非常に興味があるが、生きている間に一般化するだろうか。ただ、一部存在していることは確かで、大正時代のある日本の歌手が歌唱の際にある音階のピッチが安定していなかったという論文を読んだ時はとても興奮した。勿論、その論文は現代的な西洋音楽理論をベースとした分析をしていて、それを補完する形でcentレベルの精度で分析していたことは付記しておく。

 

SNS音楽コミュニティには、「××の新作が最高」や「〇〇と△△が友達」などの情報が多く、音楽自体に強く興味がある自分には物足りなかった。自分が求めている曲のアナライズは、主にジャズ界隈では空気レベルで当然に行われていることなのだが、ロックやニッチ音楽界隈となると途端にその情報が減る。「〇〇的なフレーズ」というのは、ジャズ界隈では音楽的語法に基づいて理解されているのだが、ロック界隈では「〇〇的なフレーズ」は印象に基づいた理解がほとんどだと思う。例えばロック界隈で言えば、自分はCocteau Twinsが好みなのだが、Cocteau Twins的なメロディは確かに存在している。Cocteau Twins的な流麗なメロディの鍵は、音の跳躍にある。一般的なメロディは隣り合った音(およそ2度)への跳躍が多いのだが、Cocteau Twinsのメロディは3度~6度の跳躍が多くみられる。それはジャズにも見られる特徴で、音の跳躍という点ではCocteau Twinsはジャズに近いとも言える。そうした分析が見られたらと思ったのだが、ほとんど視界に入ってこなかった。

 

以上のように、ジャンル問わず同じ理論で曲をアナライズできるというのが音楽理論の強みなのだが、ロックやニッチ音楽界隈ではそれがあまり活かされておらず勿体ないとは思う。勿論、アナライズが通用しない曲もある。例えば、原曲の速度を調節することで生成されるVaporwaveの曲は分析したところで、原曲のアナライズと大きな意味の違いがないので、アナライズが通用しない。Vaporwaveは、その手法に着目されるべき芸術様式なのかもしれない。このような例があるので、曲のアナライズで全てがわかる訳ではないのだが、アナライズをすることで見えてくるものがあることも確かなので、自分は「気になった曲はとりあえずアナライズしてみる」という姿勢をとっている。

 

さらっと、愚痴を書くつもりが長くなってしまった。

「杜撰な他人を気にしてると人生終わるから、自分は自分と思った」という話。

 

1週間ほど前にDavid BowieHeros」を分析した。 途中でミクソリディアンにモーダルインターチェンジしていて、「やっぱり彼はロックの人だな」と思った。Aメロがジザメリの「Darklands」は、ほぼ同じメロディで何度聴いても笑える。

 

「平成の音楽でも分析するか」と思って、最近分析したのがYUI。「Heros」と同じモーダルインターチェンジが登場する。YUIはロックに影響を受けたらようなので、自然に身につけたのだと思う。しかし、注目すべきは全くそこではなくて、暴力的な転調が潜んでいること。18歳の少女がカポなしで、キーがD♭で、サビでBに転調する曲を作っていたことに驚いた。Aメロでも部分転調を数回している。