捏造日記

電脳与太話

音楽と本質

ある音楽を好きになる際、その「好き」はその音楽の本質的良さを理解したためなのか、あるいは単なる適用による慣れがもたらした「好き」なのかの区別は困難を極める。身も蓋もないことを言って終えば、それらは明確に区別をする必要もないことだろう。

 

ただ、一人の音楽を聴く人間としては、音楽の枝葉の部分ではなくて、前者(本質的な良さを理解すること)を目的として音楽を聴いている。しかしながら、本質主義に立脚したこの考え方自体が誤りである可能性も十分に考えられる。

 

今の私の姿勢としては、構成主義的・相対主義的に音楽に関わるよりも、本質主義的な考え方を取るほうが、より良く音楽に関わることができるのではないかと思っている。なぜかと言うと、「良い音楽に共通する何かは存在しない」とする姿勢は、確かに正しいように思えるが、実際的には音楽への姿勢を消極的で怠惰にしてしまうように思えるからだ。一方、「良い音楽に共通する何かが存在する」とする姿勢は、本質を追求するために積極的に音楽にコミットしようする強い動機を与え、より能動的な音楽探求に繋がるのではないかと思う。

 

音楽の「良さ」は認識による産物なのか、音楽自体に含まれているのか、その両者の相互補完関係によって生成されるのか、さまざまな立場があるとは思うし、それ良いと思っているが、私個人の姿勢としては、よりポジティヴな結果に繋がりそうな立場をとることにしている。