捏造日記

電脳与太話

自分史上最高の作品

自分史上最高の作品は『かぐや姫の物語』である。あらゆる角度で心から絶賛したいと思えた初めての作品かもしれない。作品を知ってから「これは極めて優れた作品なので今は観るべきではない」と判断し、10年以上意識的に寝かし続けていたが満を持して昨年に鑑賞した。ハードルを極限まで上げた状態にもかかわらず、提示される逆説的な生の肯定に本当に圧倒された。あまりの衝撃に1ヶ月以上は余韻が残った。


日本アニメーション界の巨匠高畑勲は、現存する日本最古の物語の『竹取物語』を現代に甦らせ、水墨画のようなアニメーションという前人未到の表現形態で、結局は死に帰結する矛盾した生の肯定という究極的テーマに真正面から挑み、作品に結実させた。我々の足元で大口を広げているニヒリズムを超克する生の肯定はあり得るのか。徹底した現実主義者の高畑勲が出した答えとは何か。


かぐや姫の還る月は、清浄の世界であり、死の暗喩に違いない。つまり、「月に還りたくない」というかぐや姫の心情は「地球にいたい(=生きたい)」と同意である。しかし何故、彼女は嫌というほど描写されるあらゆる類のカルマに塗れた地球にいたいと希求したのか。それは彼女が地球での生活を通じて「何もない静かで美しい月の世界よりも、矛盾と混沌が渦巻いていても何かがある地球の方が良い」と実感したからだろう。彼女は生まれた直後から剥き出しの生の矛盾に否応なく曝され続ける。一方で、過ごす日々に美しい瞬間は確かにあった。それは例えば、里山の風景、何気ない会話、楽器の演奏、友人や家族と過ごす時間といった凡庸な日常である。実際、作中でもそのような瞬間は肯定的に美しく生き生きと描写されている。高畑勲は『火垂るの墓』で原作通りに主人公を何の救いもなく殺した冷徹な現実主義者だが、『かぐや姫の物語』には僅かながらの祈りを込めた。生と死や理想と現実といった生きるうえで不可避の二項対立を止揚する至上の生の肯定である。

 

高畑勲は本人主導の作品では締め切りを一度も守ったことがないことで有名だった。『火垂るの墓』は当時、色塗りの完成を待たずして一部を白黒のままにして上映された。極度の完璧主義者は、その病的なこだわりゆえに作品を完成させられない。とりわけ、意図のないものは画面に存在しない、言い換えると画面上の全てに意図が込められているアニメーションにおいて、完璧主義者が自身の理想の追求を徹底し始めるとどうなるかは想像に難くない。『かぐや姫の物語』の制作終了の危機は何度も訪れた。結果、製作期間8年、製作費52億円ものリソースが費やされたにもかかわらず、完成の間際、高畑勲が「まだやってたい」と言い始めた逸話が残っている。しかし、彼は『かぐや姫の物語』を確かに完成させた。そして試写会の後、「明らかに今日のひとつの到達点である」と評した。つまり、極度の完璧主義者が、自作に対する自分自身による極めて厳しい批評に耐え得る作品を作り出すことに成功した。残念ながら巷での評価は芳しくないが、自分は、『かぐや姫の物語』は人類への贈り物だと確信している。そして、今後の人生において、これ以上と思える作品に出会えなかったとしても驚きも後悔もない