制限・自由・内田裕也
彼女との生存確認程度のLINEを除けば、ここ1週間~2週間くらいは無言で生活する日がほとんどだった。社会的には間違いなく「おしゃべりな人」という印象をもたれていると思うが、昔から過剰接続を忌避しているきらいはある。だから、高校生の頃と変わらず同じガラケーを使っている。連絡が必要などの特別な用事がない限り、外出時に携帯を持ち歩くこともない。
今は、自分の足場を固める作業に集中している。音楽に集中したい気持ちは山々だが、集中するための足場を確保する必要がある。そんな事情で現在は、批判意識の薄い知っている音楽を垂れ流すだけの音楽愛好家と化している。同時代的な「新しい」音楽の発見は明らかに減ったが、新しいもの探し競争に参加する気も起きないので、これで良いと思っている。音楽に限らず、人が何かを際限なく消費しようとする姿は美しくない。無限に等しいリソースが安価に手に入る時代だが、自分の感覚はそれと逆行していて、制限の多い時代の素晴らしさを感じている。
昔は「制限」と聞くと不自由さを連想していたが、制限と美しさの関係性に気付いてからは、制限を肯定的に捉えるようになった。例えば、丁寧に刈りそろえられた芝は長さの制限をかけられている。楽器は音程の制限をかけられている。ヒップホップは、韻という言語的制限と、サンプリングという音楽的制限に美を見出した。どちらかと言えば、モノ的な例をあげたが、それは観念的な対象に抱く美しさの根底にも確かに制限がある。自らの欲望に制限をかけることなく、次から次に肉体関係を結ぶ女性は「尻軽」として軽蔑される。逆に、一途、添い遂げるなど、強い愛情を表す表現の根底には強い制限がある。愛情を「“特定”の誰かに対する“特別”な想い」と定義すると、愛情の定義にふたつもの制限が隠れていることがわかる。つまり、制限のない愛情は存在しない。そのままでは混沌としている世界に補助線を引き、制限をかけることで美しさが立ち昇る。したがって、その観点からすれば、先に触れた「際限ない消費意欲」と「無限に等しいリソース」の組み合わせが無制限そのもので、美しさと対極にあることがよくわかる。
自由な時代を生きる人々は、「しぇけなべいべー」と前時代的な台詞を連呼する内田裕也の不自由さを笑ったが、その不自由さは、彼が自らの人生に課したロックンロールという制限の現れだった。晩年の内田裕也は、車椅子に座りながらロックンロールの不自由を謳歌してみせた。そこには「自由こそが至上の喜びである」と妄信する人々には理解できない制限の美しさがあった。今更ながら、大学生時代に私淑していた先生の「何でもありは自由ではない」という言葉の意味を噛み締めている。家族や友人が目の前にいるにもかかわらず無意識にスマホに手が伸び、SNSやまとめサイトを逐一チェックする現代人と、ロックンロールの殉教者、どちらが真に自由だろうか。今の私の気分は、内田裕也に傾いている。
しぇけなべいべー!