最近のこと
某SNSアカウントを消した。日々の発見をノートにまとめていて、そのアウトプットの場として活用していたが、負の面が多いと感じたので消した。改善可能な悪癖は可及的速やかに排除すべしの精神に従った。暇つぶしにしては退屈で、有益な情報を得るにはノイズが多すぎた。SNSをやめて、読書、勉強、楽器の練習ばかりしていると視野が狭まるかもしれないが、リアルで積極的に行動すれば解決すると思われる。勿論、全てが悪だったという訳ではなく、多言語を理解し、熱心に数学や古典文学を勉強している中学生には感銘を受けた。半可通や“出来てしまう人”に見られる衒学趣味なども全くなく、素朴な学びを途方もなく積み重ね続ける彼の姿勢には頭が下がる。ふと思い出したが、半年ほど前、彼もSNSアカウントを消していた。
主に音楽と数学の情報を得ていたが、音楽に関してはコミュニティ独特の空気感が肌に合わなかった。悪気はないとしても、調べたら明らかに誤りとわかることを(悪気はなくとも)事実であるかのようにツイートする人たちと、それを支持する人たちの構造を見ていられなかった。浅学な自分から見ても、まともに音楽を勉強したことがないであろうことがわかる人たちが、“それっぽく”振舞っていて、「違うだろjk(死語)」と思うことが多かった。それ系の人たちは色々な話題に噛み付いているのだが、健全な議論のために押さえておくべきことへの理解が不足していると感じた。
例えば、古い日本の曲の分析に対して「古い日本の音楽は平均律に基づいて分析しても意味がない」と批判している人がいたが、彼(彼女)は、「中全音律を用いて作曲されたモーツァルトの曲を平均律に基づいて分析することに意味がないのか」という問いに答えるべきだと思う。確かに完璧に分析するのであれば、モーツァルトの使用していた調律に合わせて分析をすることが必要だが、現状、そのような分析は一般的とは言えない。異なる調律も用いて分析することで失われるものはあるが、保たれる要素も多くある。例えば、異なる調律をベースとしたある音とその3度の関係は、確かにズレているが、それを“同じ音”と許容することで同じ理論のもとで扱うことが可能になる。
厳密さを求め始めると、基準音についても考えなければならない。A=440hzと定められたのは100年ほど前のことなので、それ以前の曲については440hzに基づかない何らかの理論が必要となる。しかしながら、440hzから1hzでもズレたらそれはAではないと定義する理論は厳密だが、実践的ではない。少なくともメロディの音型を分析するのであれば、基準音を440hzと設定し、平均律に基づいた分析でも“完璧ではないが十分に役に立つ”。
理論は厳密にしすぎると、適用範囲が狭まる。逆に、厳密さを犠牲にすることで“あそび”が生まれ、適用範囲を広げることができる。音楽理論もそれは同じで、“あそび”を持たせることでさまざまな音楽を現代的な音楽理論を使って分析することができるようになる。例えば、楽譜は、ある法則に従って実際の音楽を音符という記号に還元したものなので、実際の音を完全に再現してはいない。つまり、記号化に伴って情報が抜け落ちている。しかし、楽譜は今日でも“完璧ではないが十分に役に立つ”ツールとして絶大な威力を発揮している。
長くなり過ぎたが、“それっぽい”批判をした気になっていた彼(彼女)の発言からは、考察不足と衒学趣味が見て取れたので、とても残念な気持ちになったという話。恐らく、アナライズをした経験さえないと思う。「自分で手を動かしたことあるか」、「代案を出せ」と言いたい。彼(彼女)は、「古い日本の音楽は平均律に基づいていない」という情報をどこかで獲得したのだと思われるが、情報はじっくりと検証しなければ毒になることも多い。良くも悪くも情報は認知を歪める。確かに古い日本の音楽は完全に平均律ではないので、その情報は正しいのだが、そこから「既存の音楽理論の視座から古い日本の音楽を分析することに意味がない」という結論を導くことには論理の飛躍がある。しかしながら、こんな事に遭遇するたびに、その都度マジレスしていたら人生が終わる。謙遜などでは全くなく、自分もまだまだ浅学なので精進しなければ...。個人的に、hz、centレベルで厳密な楽曲分析ということには非常に興味があるが、生きている間に一般化するだろうか。ただ、一部存在していることは確かで、大正時代のある日本の歌手が歌唱の際にある音階のピッチが安定していなかったという論文を読んだ時はとても興奮した。勿論、その論文は現代的な西洋音楽理論をベースとした分析をしていて、それを補完する形でcentレベルの精度で分析していたことは付記しておく。
某SNS音楽コミュニティには、「××の新作が最高」や「〇〇と△△が友達」などの情報が多く、音楽自体に強く興味がある自分には物足りなかった。自分が求めている曲のアナライズは、主にジャズ界隈では空気レベルで当然に行われていることなのだが、ロックやニッチ音楽界隈となると途端にその情報が減る。「〇〇的なフレーズ」というのは、ジャズ界隈では音楽的語法に基づいて理解されているのだが、ロック界隈では「〇〇的なフレーズ」は印象に基づいた理解がほとんどだと思う。例えばロック界隈で言えば、自分はCocteau Twinsが好みなのだが、Cocteau Twins的なメロディは確かに存在している。Cocteau Twins的な流麗なメロディの鍵は、音の跳躍にある。一般的なメロディは隣り合った音(およそ2度)への跳躍が多いのだが、Cocteau Twinsのメロディは3度~6度の跳躍が多くみられる。それはジャズにも見られる特徴で、音の跳躍という点ではCocteau Twinsはジャズに近いとも言える。そうした分析が見られたらと思ったのだが、ほとんど視界に入ってこなかった。
以上のように、ジャンル問わず同じ理論で曲をアナライズできるというのが音楽理論の強みなのだが、ロックやニッチ音楽界隈ではそれがあまり活かされておらず勿体ないとは思う。勿論、アナライズが通用しない曲もある。例えば、原曲の速度を調節することで生成されるVaporwaveの曲は分析したところで、原曲のアナライズと大きな意味の違いがないので、アナライズが通用しない。Vaporwaveは、その手法に着目されるべき芸術様式なのかもしれない。このような例があるので、曲のアナライズで全てがわかる訳ではないのだが、アナライズをすることで見えてくるものがあることも確かなので、自分は「気になった曲はとりあえずアナライズしてみる」という姿勢をとっている。
さらっと、愚痴を書くつもりが長くなってしまった。
「杜撰な他人を気にしてると人生終わるから、自分は自分と思った」という話。
1週間ほど前にDavid Bowie「Heros」を分析した。 途中でミクソリディアンにモーダルインターチェンジしていて、「やっぱり彼はロックの人だな」と思った。Aメロがジザメリの「Darklands」は、ほぼ同じメロディで何度聴いても笑える。
「平成の音楽でも分析するか」と思って、最近分析したのがYUI。「Heros」と同じモーダルインターチェンジが登場する。YUIはロックに影響を受けたらようなので、自然に身につけたのだと思う。しかし、注目すべきは全くそこではなくて、暴力的な転調が潜んでいること。18歳の少女がカポなしで、キーがD♭で、サビでBに転調する曲を作っていたことに驚いた。Aメロでも部分転調を数回している。