捏造日記

電脳与太話

コード進行メモ 山本精一「ラプソディア」

前衛音楽愛好家の作るポップスは、格別の味わい。名曲。

ギターを所持andコード譜が読めるandこの曲が弾きたい、という3つの条件を満たす日本人がきっと1000人くらいいるはずなので、その人たちの助けのために。

Verse 1

Gsus4 

 

Verse 2

C - C#dim - Dm9 - C on G

C - A7 - Dm9 - C on G

 

ブリッジは放置。 

 

前衛音楽家という印象が強いが、綺麗なコード進行で曲を書いていて意外だった。コード理論に通じた人は、単なる音楽の1要素に過ぎないコード進行の複雑性に過度に注目して音楽の良し悪しを語ることが多い。しかし、コード進行の複雑性とは無縁のよくあるパターン(進行)を使用しても個性が滲むものこそが本物。

 

山本精一は日本のルーリード的な立ち位置かもしれない。ブリッジの異物感には、「ラプソディア」と似たものを感じる。

20190823 電脳スクラップブック

タイトル通り、ここ最近で興味を持ったことを切り貼りするスクラップブックのようなものを作ってみました。見る人が見れば面白いかもしれません。

 

・『夜の木』

全てがハンドメイドという画期的な絵本。手漉き紙に、シルクスクリーンで一枚ずつ刷られ、製本は手製本。インドのチェンナイ郊外の工房で、一冊ずつ丁寧に仕上げられました、まさに工芸品とも言うべき絵本(シリアル・ナンバー入り)。ずっと手元においていつまでも眺めていたい一冊です。

 

・音痴に関する短いドキュメンタリー

一般向けのドキュメンタリーだと思うのですが、「音痴」は存在するが絶対的ではなく、相対的に決定されることにまで踏み込んでいて驚きました。1953年に440ヘルツの標準A音が制定されたものの、フランスが442ヘルツ、ドイツが444ヘルツを基準とすることがあるなどは面白い指摘でした。そして、マイルス・デイヴィスの発言が引用されていたことからあることを思い出しました。ハーヴィー・ハンコックが伴奏で致命的なミスをした際、マイルスがそれに機敏に反応し、まるで魔法のようにハーヴィーのミスを「正しい音」にしてしまったという逸話です。

 

・ガスリー・ゴーヴァン

様式化されたギターソロに飽き飽きしている自分が再びギターソロで驚くことになるとは想像していませんでした。ガスリー・ゴーヴァンはフュージョン界隈で神格化されている近年では絶滅危惧種ギターヒーローですが、正直自分にとっては、彼の微分音への関心以外にはあまり興味がありませんでした。伝統的なヴァイオリンやチェロは勿論、ジャコが70年代にエレキベースにフレットレスを大々的に導入しているにも関わらず、ギターにもフレットレスの波が到来しないのは長年の不思議です。


余談もほどほどに驚かされたのはこの映像です。トム・モレロの代名詞的なスクラッチ奏法をしていないにも関わらず、スクラッチのような音が鳴っている謎です。また、グライム界の神ことディジー・ラスカルが、ガスリーを取り上げたことにも驚きです。

 

そういえば、マイケル・ジャクソンのライヴにグレッグ・ハウが参加していたこともありましたね。早弾き新世代の彼にとって、「エディのソロは簡単過ぎる」と言わんばかりに「Beat It」のソロを軽々と弾きこなしていたのが印象的です。ちなみに、私はグレッグ・ハウのこの映像を観て、「ギターの達人を目指すのはやめよう」と思いました。ジャズ・フュージョン界隈はパット・マルティーノ、ジョンスコなど、超人だらけで恐ろしいです。マイナーコンヴァージョンなど、「発想は理解できるけど、一体どのように練習し、どれだけの時間をかけて血肉化したか」を考えるだけで目眩がします。


 

 

・ 日本語ヒップホップ


特に2000年代以降顕著に感じることなのですが、日本ではロックが個人の感情の発露としての機能を失い、良くも悪くも大衆に取り込まれた印象を受けます。様式化された世間からの逸脱はもはや「悪の文化」ではなく、いわゆる「ロック的」なものを求めるリスナーと「ロック的」なものを演奏するアーティストの間の共犯関係によって「ロック的」なものが生産・消費され続けている光景は自分には少々退屈です。

一方、最近の日本語(≠日本のヒップホップ)のヒップホップは面白いと思います。かつての日本のロックが誇っていた大衆迎合よりもアーティストが自己表現を優先する態度が見て取れます。そして、その価値観がyoutubeのコメント欄のような市井でも共有されることが見て取れます。勿論、ヒップホップシーンの全員がそうだとは思いませんが、「アンダーグラウンドで認められてこそ本物」という価値観はヒップホップに携わる多くの人が共有しているような印象を受けます。MCバトルの動画を見ていても思うことで、リスナーが熟練のMCと素人MCの試合を大量に視聴することで、定型的な表現を繰り返す没個性なMCの存在に気付き、そうした人たちが自然淘汰されやすい仕組みができているのは面白いです。サンプリング音源やリリックなどの知識が豊富にある人が「ヒップホップIQが高い」と持て囃されています。オタク文化の香りが残っていて好感が持てます。

 

 

 ・宮崎駿

先日、偶然テレビで『千と千尋』流れているのを目にした際、宮崎作品には、人間が本性的に孕む矛盾に厳しい眼差しを向けながらも、最終的には「人が生きること」を肯定する作風に大きな魅力を感じました。私は「一人じゃない」とか「みんな違ってそれで良い」といった標語が肌に合わないへそまがりなので、リアリズムに立脚したロマンチストという宮崎イズムに感銘を受けました。

曖昧に混沌と一緒に話しているうちに方針が決まる。相手の考え方が間違えてるよとか、そういうことを僕らはしません。これは昔の村のやり方です。それでなんとなく行くんです

 

ジブリの全ての作品に通底するメッセージはありますか」という質問に対する回答。

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったものでして、基本的に子供達に「この世は生きるに値するんだ」と伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないという風に思ってきました。 そして、今でもそれは変わっていません

 

 

細野晴臣藤幡正樹の対談

https://www.yebizo.com/jp/archive/forum/dialogue/03/dialogue7.html

今あらためて本を書く必要はない。それでも書く意味があるのは、すでに知られているはずの事柄同士にリンクを貼ることなのだと思ったのです。「僕はこれとこれがこういう関係にあると思う」と。先ほどの話はまったくそのとおりで、今はとにかくリンク切れだらけの世界。だからある程度経験を積み、伝承することに意味を感じる人間は、リンクを貼り直すということをしなければならないのかもしれません。

 

・『ジョアン・ジルベルトを探して』

隠遁していたボサノバの王様ジョアンを求め、彼の大ファンであるドイツ人ジャーナリストのマーク・フィッシャー*1はブラジルを奔走したが天運に恵まれず、その旅の体験を本に認めた後に自殺した。そして、そのマークの本を読んだ監督がジョアンを探す映画を撮影するという作品。これが悪い映画なはずがないでしょう!

・ほくさい音楽博

奏者と聴衆という境界線が非常に曖昧な「民族音楽」というのは非常に良いものだと改めて思います。私は民族音楽に限らず、ローファイなどのような「上手くない」音楽がとても好みです。音楽という文化を奏者or聴衆という二分法で区切るのは非常に勿体無いことだと思います。その点では、まるで演奏に参加しているかのように掛け合いや踊りのある日本のアイドル文化は良いものだと思います。そこに美男美女が歌って踊るというコンテンツ性に加えられるのですから、ファンが熱狂する理由がよくわかります。そんな彼らの踊りに「ケチャ」という民族音楽から取られた名前付けられているのは果たして偶然なのでしょうか。

ジャワ舞踊的な静的な踊りも魅力的です。

こんなにも素晴らしいイベントがあるとは知りませんでした。ヴァーチャルな世界の魅力が増す中、肉体的経験の得られるイベントは貴重です。「みんぱく」には何度も通っていますが、実際の楽器に触れられずに非常に歯がゆい思いをしてきたので、とても羨ましいです。機会があれば(という人の行動力は極めて怪しいが...)、是非参加したいと思います。

学校教育の体育(=運動)や音楽にも通ずる問題だと思うのですが、音楽や体育において明確な「上手さ」が定義されてしまうと、大半の「上手くない」人たちがそれらから距離を置いてしまうという問題があるように思います。しかしながら、音楽や体育(=運動)はヒトの歴史から見て、人間的生活から切り離すことができない重要な要素です。種々様々な表現手段が存在する現代社会のあらゆる場面で音楽が未だに重用されていることは現代の不思議です。またそれはヒトに限った話ではなく、一見音を扱う必要がないように思えるアシカがリズムをビートを知覚するという能力を見せていることからして、動物にとって音楽は何らかの重要な役割を果たしているのでしょう。

 

どうぶつの森

どうぶつの森シリーズはBGMが非常良いのですが、公式サントラが充実していないのが残念です。様々な雰囲気を演出するために様々な音階が使われていて面白いです。

リンクの曲をはじめて耳にした時、「ジョンケージに似てる」と思いました。任天堂所属の片岡真央と朝日温子がメインコンポーザーという情報はありましたが、どの曲を誰が作ったのかまでは不明です。ゲームミュージックは広大な沃野と思いつつ、まだまだ手をつけられていない悲しい状態です。例えばマリオのメインテーマなど、一体どこに由来するのか不思議で仕方ないです。

*1:界隈で盛り上がっている思想家とは別

ラキムのリリック

ラキムの日本語wikiの誤訳(解説?)が中々に酷いと思った。

「ドント・スウェット・ザ・テクニック」のリリックには、『科学者たちは本質を見出そうとしている。哲学者たちは未来を予測しようとしている。そのために、連中は研究室に篭りっきりだ。しかしやつらは、それを呑み込めなかったし、そうする資格も持っていなかった。自分の思想は、自分の音楽を聴く者たちのためにある。さらに自分に反対する人々のためにある。すぐに受け入れられるようなものではない』

ラキム (2019年7月現在)

 

これが恐らく上の訳の箇所のリリック。

They wanna know how many rhymes have I ripped and wrecked

But researchers never found all the pieces yet

Scientists try to solve the context

Philosophers are wondering what's next

Pieces are took to labs to observe them

They couldn't absorb them, they didn't deserve them

My ideas are only for the audience's ears

 

上の日本語訳には「本質」という言葉が出てくるが、そのような表現はない。「連中は研究室に籠もりっきりだ」に対応する表現もない。全体を通して、安っぽい科学者叩きのような印象を受ける。

原文に対応した自分の解釈では、ラキムは、リリックを仔細に分析しようとする科学者を揶揄することで、自身の音楽に「科学的」には分析され得ない“何かが”隠されていることを仄めかしているのだと思う。

 

そうすると、上のリリックに続く部分を綺麗に解釈できる。

Letters put together from a key to chords

I'm also a sculpture, formed with structure

恐らく、この文脈のkey は鍵盤を意味している。鍵盤を同時に2つ以上叩くと和音が生まれる。それを比喩的に用いて、文字の組み合わせが生み出す和音について述べている。そして、それに続く「構造のもとに誕生した彫刻」という表現は、まるでプラトンイデア論を想起させる。言葉の和音がまるで人知を超えた存在であることを匂わせる。もしかすると、ラキムが科学者や哲学者を嘲笑った理由は、彼らが「神の創造物(=言葉の和音)」を強引に人間界の文脈に押し込んで理解しようとしているからなのかもしれない。示唆に富む非常に美しいリリックだと思う。

制限・自由・内田裕也

彼女との生存確認程度のLINEを除けば、ここ1週間~2週間くらいは無言で生活する日がほとんどだった。社会的には間違いなく「おしゃべりな人」という印象をもたれていると思うが、昔から過剰接続を忌避しているきらいはある。だから、高校生の頃と変わらず同じガラケーを使っている。連絡が必要などの特別な用事がない限り、外出時に携帯を持ち歩くこともない。

 

今は、自分の足場を固める作業に集中している。音楽に集中したい気持ちは山々だが、集中するための足場を確保する必要がある。そんな事情で現在は、批判意識の薄い知っている音楽を垂れ流すだけの音楽愛好家と化している。同時代的な「新しい」音楽の発見は明らかに減ったが、新しいもの探し競争に参加する気も起きないので、これで良いと思っている。音楽に限らず、人が何かを際限なく消費しようとする姿は美しくない。無限に等しいリソースが安価に手に入る時代だが、自分の感覚はそれと逆行していて、制限の多い時代の素晴らしさを感じている。

昔は「制限」と聞くと不自由さを連想していたが、制限と美しさの関係性に気付いてからは、制限を肯定的に捉えるようになった。例えば、丁寧に刈りそろえられた芝は長さの制限をかけられている。楽器は音程の制限をかけられている。ヒップホップは、韻という言語的制限と、サンプリングという音楽的制限に美を見出した。どちらかと言えば、モノ的な例をあげたが、それは観念的な対象に抱く美しさの根底にも確かに制限がある。自らの欲望に制限をかけることなく、次から次に肉体関係を結ぶ女性は「尻軽」として軽蔑される。逆に、一途、添い遂げるなど、強い愛情を表す表現の根底には強い制限がある。愛情を「“特定”の誰かに対する“特別”な想い」と定義すると、愛情の定義にふたつもの制限が隠れていることがわかる。つまり、制限のない愛情は存在しない。そのままでは混沌としている世界に補助線を引き、制限をかけることで美しさが立ち昇る。したがって、その観点からすれば、先に触れた「際限ない消費意欲」と「無限に等しいリソース」の組み合わせが無制限そのもので、美しさと対極にあることがよくわかる。

 

自由な時代を生きる人々は、「しぇけなべいべー」と前時代的な台詞を連呼する内田裕也の不自由さを笑ったが、その不自由さは、彼が自らの人生に課したロックンロールという制限の現れだった。晩年の内田裕也は、車椅子に座りながらロックンロールの不自由を謳歌してみせた。そこには「自由こそが至上の喜びである」と妄信する人々には理解できない制限の美しさがあった。今更ながら、大学生時代に私淑していた先生の「何でもありは自由ではない」という言葉の意味を噛み締めている。家族や友人が目の前にいるにもかかわらず無意識にスマホに手が伸び、SNSまとめサイトを逐一チェックする現代人と、ロックンロールの殉教者、どちらが真に自由だろうか。今の私の気分は、内田裕也に傾いている。

 

 

しぇけなべいべー!

最近のこと

SNSアカウントを消した。日々の発見をノートにまとめていて、そのアウトプットの場として活用していたが、負の面が多いと感じたので消した。改善可能な悪癖は可及的速やかに排除すべしの精神に従った。暇つぶしにしては退屈で、有益な情報を得るにはノイズが多すぎた。SNSをやめて、読書、勉強、楽器の練習ばかりしていると視野が狭まるかもしれないが、リアルで積極的に行動すれば解決すると思われる。勿論、全てが悪だったという訳ではなく、多言語を理解し、熱心に数学や古典文学を勉強している中学生には感銘を受けた。半可通や“出来てしまう人”に見られる衒学趣味なども全くなく、素朴な学びを途方もなく積み重ね続ける彼の姿勢には頭が下がる。ふと思い出したが、半年ほど前、彼もSNSアカウントを消していた。

 

主に音楽と数学の情報を得ていたが、音楽に関してはコミュニティ独特の空気感が肌に合わなかった。悪気はないとしても、調べたら明らかに誤りとわかることを(悪気はなくとも)事実であるかのようにツイートする人たちと、それを支持する人たちの構造を見ていられなかった。浅学な自分から見ても、まともに音楽を勉強したことがないであろうことがわかる人たちが、“それっぽく”振舞っていて、「違うだろjk(死語)」と思うことが多かった。それ系の人たちは色々な話題に噛み付いているのだが、健全な議論のために押さえておくべきことへの理解が不足していると感じた。

 

例えば、古い日本の曲の分析に対して「古い日本の音楽は平均律に基づいて分析しても意味がない」と批判している人がいたが、彼(彼女)は、「中全音律を用いて作曲されたモーツァルトの曲を平均律に基づいて分析することに意味がないのか」という問いに答えるべきだと思う。確かに完璧に分析するのであれば、モーツァルトの使用していた調律に合わせて分析をすることが必要だが、現状、そのような分析は一般的とは言えない。異なる調律も用いて分析することで失われるものはあるが、保たれる要素も多くある。例えば、異なる調律をベースとしたある音とその3度の関係は、確かにズレているが、それを“同じ音”と許容することで同じ理論のもとで扱うことが可能になる。

 

厳密さを求め始めると、基準音についても考えなければならない。A=440hzと定められたのは100年ほど前のことなので、それ以前の曲については440hzに基づかない何らかの理論が必要となる。しかしながら、440hzから1hzでもズレたらそれはAではないと定義する理論は厳密だが、実践的ではない。少なくともメロディの音型を分析するのであれば、基準音を440hzと設定し、平均律に基づいた分析でも“完璧ではないが十分に役に立つ”。

理論は厳密にしすぎると、適用範囲が狭まる。逆に、厳密さを犠牲にすることで“あそび”が生まれ、適用範囲を広げることができる。音楽理論もそれは同じで、“あそび”を持たせることでさまざまな音楽を現代的な音楽理論を使って分析することができるようになる。例えば、楽譜は、ある法則に従って実際の音楽を音符という記号に還元したものなので、実際の音を完全に再現してはいない。つまり、記号化に伴って情報が抜け落ちている。しかし、楽譜は今日でも“完璧ではないが十分に役に立つ”ツールとして絶大な威力を発揮している。

長くなり過ぎたが、“それっぽい”批判をした気になっていた彼(彼女)の発言からは、考察不足と衒学趣味が見て取れたので、とても残念な気持ちになったという話。恐らく、アナライズをした経験さえないと思う。「自分で手を動かしたことあるか」、「代案を出せ」と言いたい。彼(彼女)は、「古い日本の音楽は平均律に基づいていない」という情報をどこかで獲得したのだと思われるが、情報はじっくりと検証しなければ毒になることも多い。良くも悪くも情報は認知を歪める。確かに古い日本の音楽は完全に平均律ではないので、その情報は正しいのだが、そこから「既存の音楽理論の視座から古い日本の音楽を分析することに意味がない」という結論を導くことには論理の飛躍がある。しかしながら、こんな事に遭遇するたびに、その都度マジレスしていたら人生が終わる。謙遜などでは全くなく、自分もまだまだ浅学なので精進しなければ...。個人的に、hz、centレベルで厳密な楽曲分析ということには非常に興味があるが、生きている間に一般化するだろうか。ただ、一部存在していることは確かで、大正時代のある日本の歌手が歌唱の際にある音階のピッチが安定していなかったという論文を読んだ時はとても興奮した。勿論、その論文は現代的な西洋音楽理論をベースとした分析をしていて、それを補完する形でcentレベルの精度で分析していたことは付記しておく。

 

SNS音楽コミュニティには、「××の新作が最高」や「〇〇と△△が友達」などの情報が多く、音楽自体に強く興味がある自分には物足りなかった。自分が求めている曲のアナライズは、主にジャズ界隈では空気レベルで当然に行われていることなのだが、ロックやニッチ音楽界隈となると途端にその情報が減る。「〇〇的なフレーズ」というのは、ジャズ界隈では音楽的語法に基づいて理解されているのだが、ロック界隈では「〇〇的なフレーズ」は印象に基づいた理解がほとんどだと思う。例えばロック界隈で言えば、自分はCocteau Twinsが好みなのだが、Cocteau Twins的なメロディは確かに存在している。Cocteau Twins的な流麗なメロディの鍵は、音の跳躍にある。一般的なメロディは隣り合った音(およそ2度)への跳躍が多いのだが、Cocteau Twinsのメロディは3度~6度の跳躍が多くみられる。それはジャズにも見られる特徴で、音の跳躍という点ではCocteau Twinsはジャズに近いとも言える。そうした分析が見られたらと思ったのだが、ほとんど視界に入ってこなかった。

 

以上のように、ジャンル問わず同じ理論で曲をアナライズできるというのが音楽理論の強みなのだが、ロックやニッチ音楽界隈ではそれがあまり活かされておらず勿体ないとは思う。勿論、アナライズが通用しない曲もある。例えば、原曲の速度を調節することで生成されるVaporwaveの曲は分析したところで、原曲のアナライズと大きな意味の違いがないので、アナライズが通用しない。Vaporwaveは、その手法に着目されるべき芸術様式なのかもしれない。このような例があるので、曲のアナライズで全てがわかる訳ではないのだが、アナライズをすることで見えてくるものがあることも確かなので、自分は「気になった曲はとりあえずアナライズしてみる」という姿勢をとっている。

 

さらっと、愚痴を書くつもりが長くなってしまった。

「杜撰な他人を気にしてると人生終わるから、自分は自分と思った」という話。

 

1週間ほど前にDavid BowieHeros」を分析した。 途中でミクソリディアンにモーダルインターチェンジしていて、「やっぱり彼はロックの人だな」と思った。Aメロがジザメリの「Darklands」は、ほぼ同じメロディで何度聴いても笑える。

 

「平成の音楽でも分析するか」と思って、最近分析したのがYUI。「Heros」と同じモーダルインターチェンジが登場する。YUIはロックに影響を受けたらようなので、自然に身につけたのだと思う。しかし、注目すべきは全くそこではなくて、暴力的な転調が潜んでいること。18歳の少女がカポなしで、キーがD♭で、サビでBに転調する曲を作っていたことに驚いた。Aメロでも部分転調を数回している。

スガシカオ「黄金の月」の解釈について

 先月辺りでしょうか。「黄金の月」を聴いている時、「結局これは何が言いたいのか」が気になって仕方がなくなりました。うんうんと頭を抱えていると、あるヒラメキがありました。家に帰ってそのアイデアを紙に書き出して整理すると、面白いことに気付きました。この記事では、その発見を共有したいと思います。

 スガシカオ(以下:スガ)の代表曲「黄金の月」は歌詞が難解なことで有名(?)です。「黄金の月」をググると、「黄金の月 解釈」が候補としてあがります。実際、明暗がはっきりとしない掴みどころのない歌詞をめぐって様々な解釈があるようです*1。例えば、スガを見出したことで知られるオフィス・オーガスタ社長の森川氏は、「黄金の月」について以下のように綴っています。

「純粋」は少しずつ僕との距離を広げつつあった。僕は自分がずっと否定してきた“あんな大人”ってやつに、実はなってしまったのだ。僕の心の「黄金の月」は消えうせてしまったのだ・・・そんなふうに言い当てられたまま終わるような気がして、歌詞の結末を聴く事を本気で恐れた。だが、「夜空に光る黄金の月などなくても」と締めくくられるフレーズは、そんな僕にとっては救いだった。
黄金の月・・難解な歌詞の解釈 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

「黄金の月」には、森川氏が恐れたような心の奥底をえぐる表現が含まれています。身近な人に聴かせても「難しい」「暗すぎ」といったあまり好意的とは言えない感想をもらうことが多いです。しかし、先の引用からわかるように森川氏は最後に救いを感じたようです。なぜでしょうか。実は、「黄金の月」は複雑に見えますが、その表層を丹念に剥がしてゆくと、意外なメッセージが浮かび上がります。それを理解すれば、森川氏が救いを感じた理由がよくわかると思います。この記事では、とりわけ「スガは『黄金の月』で何を言っているのか」に焦点を当てて、私なりの「黄金の月」の解釈を書きます。論を進めるにあたって、細かい確認が必要な箇所があり、その部分が長くなると思いますが、正確な解釈のためなので許してください。

  では、早速「黄金の月」を解釈に取り掛かります。全文を逐語的に分析することはせず、重要と思われる箇所のみを検討することにします。そうすると「どの部分が重要なのか」という話になりますが、ポップスの歌詞解釈にあたって最も重要な部分は、サビと結論(最後)です。サビと結論は、聴き手が最も惹きつけられる部分であり、作り手が重要なメッセージを込める部分です(勿論、全ての曲に当てはまるわけではない)。今回は、そこに着目して「黄金の月」を考察します。

 まず最初のサビです。極めて初期のスガらしい人間の本質的弱さについての描写です。

大事な言葉を 何度も言おうとして

すいこむ息は ムネの途中でつかえた

どんな言葉で 君に伝えればいい

吐き出す声は いつも途中で途切れた

「黄金の月」サビA  (『Clover』収録)

  2回目のサビも1回目のサビと同じくナイーヴですが、僅かに光を帯びます。しかしながら、「君の願いとぼくのウソをあわせて(中略)キスをしよう」というネガティヴにも取れる“強い”表現もあり、未だに掴みどころがありません。

君の願いと ぼくのウソをあわせて 6月の夜 

永遠をちかうキスをしよう

そして夜空に 黄金の月をえがこう

ぼくにできるだけの 光をあつめて 光をあつめて…

「黄金の月」サビB 

 ブリッジ(最後のサビ前の間奏)を挟んで、3回目(最後)のサビに入ります。2回目のサビで微かな光が差し込んだことから、3回目のサビは徐々に光が強くなることが期待されます。しかし、スガはそれを裏切り、耳を塞ぎたくなるほど非情な現実を躊躇なく羅列し、最後のサビを終えます。果たしてこれがスガの“言いたいこと”なのでしょうか。

ぼくの未来に 光などなくても

誰かがぼくのことを どこかでわらっていても

君のあしたが みにくくゆがんでも

ぼくらが二度と 純粋を手に入れられなくても

「黄金の月」サビC

 いいえ、まだ最後の一節が残っています。アウトロに入る直前、スガは一言だけ付け加えます。「黄金の月」の結論に当たる部分です。

夜空に光る 黄金の月などなくても

 しかし、「黄金の月などなくても」の後は省略されています。スガは、まさに省略のことを指していると思われる発言を残しています。

“こっからここまでは言うけど、こっからここまでは想像して考えてね” 

2枚目シングル「黄金の月」 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~ 

では、最後の省略にはどのようなメッセージが隠されているのかという話になりますが、そこに隠されたメッセージを読み解くには、作詞家としてのスガを知る必要があります。スガは、ヒトの弱さを徹底的に描写しますが、基本的に「明日死んでもいい」のような究極的にネガティヴなことは書きません*2。スガ作品の特徴とも言える極めて人間的でナイーヴな描写は、詩としてのリアリティを追求した結果に過ぎません。彼は一貫して“キズだらけの生”を肯定してきました。少し長いですがスガ本人の言葉を見てみましょう。

何かを変えようっていうつもりで音楽は作ってないですけど、でも誰かの人生を変えるだろうなとは思いますね。それは僕も変えられたし、別にその曲が僕の人生を変えてやろうと思って作られた訳じゃないんでしょうけど。でも誰かの人生に何かの影響を与えるんだろうなとは思ってるので、あんまり無責任なラブ&ピースとかを僕は歌いたくないなといつも思っていて。だから歌詞に関してはある意味すごく拘りをもって書いてはいますね。絶対に影響するから夢物語ばかりは歌えないし、キツイことばかり歌ってりゃいいってもんでもないし。

 黄金の言葉【音楽への向かい方】 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

本当に悲しんでいる人に、気持ちわかるよ・・とか言えないし、無責任に背中を押す事は出来ない。でも絶望だけではなく、光を与えられたらいいと思っている。

黄金の言葉【音楽への向かい方】 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

 以上を踏まえ、スガ作品史上最も暗く売れなかった『Time』の収録曲を例として、実際に歌詞を確認してみましょう。『Time』は本人の「グロエネルギーっていうんですか、もーねぇ……。気がついたらね、アルバムが『真ッ黒』になってました*3」というコメントからも分かる通り、本人公認の重い作品です(余談ですが、この作品の間口の狭さを反省して「午後のパレード」や「Progress」を書くことになります)。

途切れた願いは 消えてしまうのではなくて  

ぼくらはその痛みで 明日を知るのかもしれない   

 

「光の川」(『Time』収録)

   

ねぇ 今日僕たちは それぞれの光を探し 

当たり前のように 明日へと 歩き出します 

「風なぎ」(『Time』収録)

スガの歌詞がナイーヴながらも、究極的にネガティヴではないことが確認できたでしょうか。正直なところ、例が少ないので他の曲についても触れたいですが、長くなりすぎるので割愛します。

 

また、スガが坂口安吾から受けた影響についても少しだけ触れておきます。スガはしばしば『堕落論』からの強い影響を公言していますが、“リアリズムに立脚した地に足のついた優しさ”という点で安吾に影響を受けたのだと思います。もう少し後で述べますが、人間が本性的に堕落する生き物であることを認め、堕落から出発して逆説的に生を肯定する『堕落論』の構造は、「黄金の月」の構造と綺麗に重なります。スガの曲で頻繁に見られる構造です。

人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。
「 堕落論」

 

 長くなりましたが下準備はこれで終わりです。 「黄金の月」の最後の省略に話を戻します。その部分を補完するには、先ほど確認した「スガは究極的にネガティヴな歌詞は書かない」という前提が必要になります。その前提に従うと、「夜空に光る 黄金の月などなくても 」の後に省略された言葉は決して“暗いなものではない”ことになります。スガ本人もそれを認めるような発言を残しています。

「ナントカではない」っていう〈否定〉文があったら その〈否定〉文を〈否定〉するからそれを〈肯定〉と取ってねっていうような歌詞の書き方なんですね。

2枚目シングル「黄金の月」 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

もし仮にネガティヴな言葉が隠されていたとすると、この曲のメッセージは極めてネガティヴになります。「夜空に光る 黄金の月などなくても」に続く言葉が、例えば「失ったものは二度と手に入らない」のようになります。非常に後味が悪く、文章としてもかなり不自然です。

 

以上の考察から、私は、最後の省略には「悪いことはない」というメッセージ(言葉)が隠れていると考えます。補完すると以下のようになります。

夜空に光る 黄金の月などなくても

悪いことはない ←補完部分

「黄金の月(補完ver.)」

これを正しいと認めた上で解釈を進めます。このままでも“わからないことはない”のですが、もう少し読みやすく変形します。

まずはじめに、「黄金の月(補完ver.)」を少し違った視点から見ます。「黄金の月がない」という仮定から「悪いことはない」という結論を導いている、つまり「AならばB」として解釈し、以下のように記号化して整理します。詩的な表現も簡明のために一度簡略化します。

  • 「黄金の月がある」をPとします
  • 「悪いことがある」をQとします

さらに、以上の記号を「黄金の月(補完ver.)」に合わせて変形します。

  • 「黄金の月がない」は、not(P)として表現します。
  • 「悪いことがない」は、not(Q)として表現します。

これらの記号を使って「黄金の月(補完ver.)」を表現するとnot(P)ならばnot(Q)となります。記号を言葉に戻すと、「黄金の月がない ならば 悪いことはない」です。言葉の意味が捉えづらいとは思いますが、この意味はさほど重要ではないので、単なる機械的操作として受け入れてください。

 

次に、「not(P)ならばnot(Q)」の待遇*4をとります。対偶は、「AならばB」 と「not(B)ならばnot(A)」は同値を意味します。念のため簡単な例を出しておくと、「ライオンならば動物である」の対偶は「動物でないならばライオンではない」です。見た目が複雑になりますが、対偶を使って「not(P)ならばnot(Q)」変換し、「not(not(Q))ならばnot(not(P))」を導きます。意味を考えると混乱してしまうので、意味を考えないのが大切です。

 

ここで上で引用した「〈否定〉文があったら その〈否定〉文を〈否定〉するからそれを〈肯定〉と取ってね」というスガの言葉を思い出してください。スガの言葉を記号化すると、「not(not(A))ならばA」となります。この「任意の命題の否定の否定は肯定である」は、「二重否定除去則」という古典論理の公理です。そして、「『黄金の月』はその規則を使って解釈して欲しい」と言っています。では、スガの言う通り、「not(not(A))ならばA (二重否定除去則)」を使って、not(not(Q))ならばnot(not(P)) と変形された「黄金の月(補完ver.)」を整理します。難しく見えますが「裏の裏は表」のように考えれば簡単です。not(not(Q))はQと同値で、not(not(P))はPと同値です。したがって、「not(not(Q))ならばnot(not(P)) 」が正しいならば、「QならばP」も正しいことがわかります。

 

機械的操作はこれで終わりです。ここで「QならばP」という結論を得ました。次に記号の並びを読める状態に戻します。

  • 「悪いことがある」をQとします
  • 「黄金の月がある」をPとします

「悪いことがある ならば 黄金の月はある」となります。とても機械的なので多少詩的な表現に変換します。すると、「悪いことがあっても 黄金の月はある」という文が完成します。これが「黄金の月」でスガが“言いたいこと”だと思われます。つまり、「黄金の月」の「夜空に光る 黄金の月などなくても」という結論は決して絶望ではなく、とても遠回りなやり方ではありますが、絶望とは真逆の「黄金の月はある」という希望を歌っている訳です。これを念頭に置いて、最後のサビで見られた不可思議なナイーヴな表現の連続と補完(と変形)した結論をもう一度確認します。 

ぼくの未来に 光などなくても

誰かがぼくのことを どこかでわらっていても

君のあしたが みにくくゆがんでも

ぼくらが二度と 純粋を手に入れられなくても

「黄金の月」サビC

 「補完した結論」と“同じこと”を意味する結論

悪いことがあったとしても

夜空に光る 黄金の月はある

「黄金の月(補完ver.)」の変形

 このように整理すると、サビCの「悪いこと」の羅列は、「そうした悪いことがあっても、黄金の月はある」という結論を導くための伏線だったことがわかります。先に触れた『堕落論』と同じく、非情な現実を羅列した後、逆説的に生を肯定する構造です。

 スガは、夜空に輝く月をメタファーとして、良いことばかりが連続しない(≒時には辛いことがある)生を肯定しています。少し深読みすると、日中には太陽があります。したがって、「日中であるor日中ではない(夜)」のどちらの場合でも問題はない訳です*5。すると「黄金の月」を“生の全肯定”として解釈することもできますが、そこまで大きく解釈するかどうかは読み手次第でしょう。

ただ、「黄金の月」の根底に隠された「夜空に光る黄金の月は“ある”」という何にも代えがたい強烈な肯定が多くの人を惹き付けている、そこだけは確かな気がします。だからこそ、一度は絶望に震えた森川氏の心は救われたのだと思います。

 

この記事を読んでスガに興味を持った人には、最近発売されたこのベスト版をオススメしておきます。比較的良くまとまっています。

フリー・ソウル・スガシカオ

フリー・ソウル・スガシカオ

 

 

もう一枚、買い足すとすれば以下がオススメです。こちらもベスト版ですが、リマスターのおかげで音質が向上しています。「お別れにむけて」、「ぼくたちの日々」、「坂の途中」、「これからむかえにいくよ」など、スガを語る上で外せない曲が補完されます。これ以上求める人は、オリジナルアルバムを1枚ずつ集めるのが良いと思います。

BEST HIT!! SUGA SHIKAO-1997~2002-

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おまけ

この記事ではスガの詩に触れたのみで、音楽に触れることができませんでした。罪滅ぼしにスガシカオの音楽の変遷ついて理解が進むプレイリストを作りました。リリースの時系列順です。いくつかを除いてほぼキーE(ギターとベースの開放弦が使えるファンクの基本!)の曲なのは(半音下げチューニングを使用したと思われるE♭の曲も含まれる)意図的です。理由は、スガのキーEの曲のAメロをワンコード一発で押し通すことが多く、その制約の中で聴かせる曲を作るため、スガが曲にバリエーションを持たせるためにサウンドプロデュースを工夫しているからです。キーEの曲のワンコード部分を比較することで、スガのサウンドプロデュースの変遷がよく掴めます。

 

彼の曲を100曲ほど分析した経験がありますが、詩、メロディ、ハーモニー、リズム、サウンドプロデュースまでを視野に入れた有機的なスガシカオ論を語るにはまだまだ熟成が足らず、しばらくは無理そうです。ただ、全く触れないのは面白くないと思うので少しだけ触れると、例えばスガは、Radioheadの「Creep」などで見られるⅠ-Ⅲのコード進行を極めて好むことが挙げられます。長調の世界には存在しない短調の響きを使用することでスガは長調の曲に陰影を付けます。これはスガの手癖です。

先に書いたように近日中には到底無理ですが、平成日本音楽界の巨人として評価されるべき存在のスガが十分に評価されていない(売れるという意味ではない)現状には多少の不満があるので、いずれ整理しようとは思っています。個人的には、椎名林檎宇多田ヒカルと同等の評価が妥当だと思っています。日本音楽界の巨匠、細野晴臣は、スガの「あまい果実」を以下のように評しています。

「え?5年前の曲?う~ん、世に出すのが早すぎたね・・。」

あまい果実 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

 

他にもバート・バカラック(神)がスガシカオ「正義の味方」を気に入ったという話があります(◎東京ジャズTokyo Jazz (Part 2) ~ルーファスとスガシカオとバカラックとの邂逅 | 吉岡正晴のソウル・サーチン)。巨匠に認められることが、直ちに音楽的に素晴らしいことを意味する訳ではありませんが、参考程度に...。

 

*1:事務所はその難解さを理由に歌詞の書き換えを要求したと言われています。しかし、スガが拒否したため現在の形のままリリースされることになりました「先のことを考えちゃいけないんですよ。」──スガ シカオ | BARKS

*2:勿論、例外はあります。例えば、「ぼくたちの日々」の歌詞は「すり減っていく」で終わります。他にも七夕をテーマにしたと思われる「7月7日」はかなり暗い印象を受けます。

*3:音楽的孤立 | スガ シカオという生き方 ~history of his way~

*4:当然のように待遇を使用しましたが、待遇は二重否定除去則から導くことができます。したがって、スガが「二重否定除去則を使用してほしい」との発言を認めた時点で、待遇の使用も認められます。本人が上の解釈で使用したような細かな規則を知っていたとは思いませんが、自然な論理的正しさを意識した結果、論理的に整理された美しい歌詞が生まれたのでしょう。

*5: (A or B)の論理式が仮定にある時、A->C かつ B->Cが演繹できるのであれば、(A or B) -> C は真。つまり、日中には太陽があるので、問題はない。日中でない時(夜)にも月があるので問題はない。日中or日中ではない ->(問題はない)が演繹できる

Elizabeth Frazerのルーツを巡る

 

Elizabeth Fraser(以下:リズ)の声を初めて耳にした時の衝撃は強烈でした。「これは恐らく自分の全く知らない世界(ルーツ)から来たものだろう」と直感しましたが、その正体を掴めない状態が長く続きました。理由は簡単で、目につきやすいところに答えがないからだと思います。例えば、日本語と英語のウィキペディアを見てみるとしましょう。

 

バンドは、当時、ジョイ・ディヴィジョンバースデー・パーティーセックス・ピストルズスージー・アンド・ザ・バンシーズの影響を受けており、コクトー・ツインズというバンド名は、シンプル・マインズの初期の未発表曲に由来している。 コクトー・ツインズ - Wikipedia

 

 The band's influences at the time included The Birthday Party, Sex Pistols, Kate Bush and Siouxsie and the Banshees  
英語ウィキ Cocteau Twins - Wikipedia

 

この記述が多くのブログで拡散されているようですが、私は彼らの音楽を何度聴いても、リズのルーツがパンクやニューウェーヴであるという説明には納得できませんでした。代表作とされる『Treasure』収録曲を筆頭に、何曲も音楽的に分析しましたが、3拍子の曲が多いことからもわかるように、彼ら(とりわけ、リズ)のルーツに8ビートをベースとしたロックミュージックの文脈が最も大きな影響源とは到底思えませんでした。他にも、大胆なアルベジオ(つまり、音の跳躍が大きい)メロディなど、分析すればするほど「パンクやニューウェーヴとは違う」とばかり思いました。確かに、部分的には例えば、ゴスからの影響などが認められますが、やはりそれは決定的ではないと思いました。そして、音楽には必ず何かしらのルーツがあるにも関わらず、リズの場合に限って「大部分は天性に由来する」と考えることには常に違和感がありました。

 

しかし、その疑問を氷解させる記事を見つけました。彼女の決定的な影響を受けた音楽は、『Le Mystère Des Voix Bulgares』というブルガリア音楽です。そのことについて書いている記事から引用します。

 

she reveals that her vocal style was greatly influenced by the a cappella recordings of Bulgarian folk singers. After coming across the cassette of Le Mystère des Voix Bulgares, Fraser decided that she would learn it by heart and that it would be her “teacher and her home.”
John Grant and Elizabeth Fraser In Conversation at The Royal Albert Hall / In Depth // Drowned In Sound

 

リズの声に馴染みのある人であれば、聴いた瞬間にわかると思います。

 

ブルガリア唱歌を「天使の声」と称賛するコメントを頻繁に目にしますが、そこもリズと一致しています。

 

この音源の誕生には、ブルガリア人作曲家のフィリップ・クーテフ(Philip Kutev)と、マーセル(Marcel)とキャサリン(Cathrine)というスイス人の夫婦が大きく関係しています。それについて書きます。

 

クーテフは、政府から依頼で、ブルガリアの民謡のためのグループを創設しました。彼はブルガリアの伝統音楽に不協和音や印象派や12音技法を組み合わせる斬新なアレンジを施しました。その後、彼が率いていたFilip Kutev Ensembleというグループが、 Bulgarian State Television Female Vocal Choir (以下:BSTFVC)というグループになりました。そしてこのBSTFVCこそが、後にリズに絶大な影響を与えることとなる『Le Mystère Des Voix Bulgares』のほとんどの曲に参加したグループです。

 

美しい音楽が誕生したことは良いものの、時代は冷戦でした。したがって、録音に至るまでの道は平坦ではありませんでした。そこで登場するのが、先に少し触れたスイス人の夫婦、マーセル(Marcel)とキャサリン(Cathrine)です。夫のマーセルは、ラジオ曲で働いており、Disques Cellier,という伝統音楽のためのレーベル運営もしていました。彼らが、どこでブルガリア音楽を初めて耳にしたかは定かではないですが、その魅力に取り憑かれ、1950年代後半、彼らはなんとかしてブルガリアに定期的に訪れる許可を得ました。

 

その当時をマーセルはこう振り返ります。

It was the time of absolute Stalinism.You couldn't speak with people on the street.(They)were afraid of coming into contact with western travellers.

 

キャサリンはこう言います。

But the music  was so beautiful.The attraction was so strong.
in spite of all this , we couldn't resist travelling there.

 

彼らは、35kgもある大きな録音機器を持ち運びながら首都ソフィアから地方までを移動し、ブルガリアの伝統音楽のレコーディングを行いました。そして、彼らが録音したものとRadio Sofia(ブルガリアのラジオ曲?)のアーカイブを組み合わせれて誕生したのが、『Le Mystère Des Voix Bulgares』です。1975年のことでした。この音源が、どこかを巡り、エリザベス・フレイザーの手元に届いたのだと思います。リズの話はここでお終わりです。この記事でリズのルーツと同じくらいに書きたかったことを以下に続けます。音楽の伝わり方についてです。

 

当時は、一部の音楽愛好家の間でしか広まりませんでした。しかし、その音源が、偶然オーストラリア人のダンサーの友人から手渡されたBauhausのヴォーカリストのPeter John Murphyの手に渡り、続いて4ADの創設者のひとりであるIvo Watts-Russel(以下:アイヴォ)のもとに届きました。アイヴォはその音を非常に感銘を受け、マーセルを突き止め、彼から許可を取り、1986年に4ADから『Le Mystère Des Voix Bulgares』を再リリースしています。彼はこの作品を自身のキャリアにおいて非常に重要なものだと考えているようです。彼の発言が含まれる部分を引用します。

“It was timeless, it is timeless and it always will be timeless.” Watts-Russell calls the album “a highlight of my life, my career.”

How Le Mystère Des Voix Bulgares became a timeless cult phenomenon

余談ですが、Frank Zappaブルガリア音楽を愛好していたそうです。アイヴォは彼に『Le Mystère Des Voix Bulgares』を送ったと言っています。

 

リズの話からさらに外れますが、作曲家クーテフについて少し書きます。面白いことに彼は、実は芸能山城組の創設に間接的に関わっています。小泉文夫という民族音楽学者が、クーテフに接触しています。彼はクーテフと会った際、「西洋音楽教育を受けた人は使わない」というクーテフの方針に大きな共感を覚えたようです*1。小泉は帰国後、個人的に親交のあった芸能山城組の創設者となる山城祥二の手元にブルガリア音楽を届けました。その後、山城がどのように動いたかは芸能山城組の公式HPに書かれています。彼は、芸能山城組の前身グループで、1968年にブルガリアン・ポリフォニーの演奏を世界で初めて成功させています。

この話題の最後に、芸能山城組の参加資格について触れておきましょう。公式HPから引用します。

2.芸能山城組は、アマチュアの集団で音楽・芸能をなりわいとはしておりません。そのため原則として音楽・芸能を職業とされている方はご遠慮いただいております。ご不明な点はご相談ください。
芸能山城組の活動への参加 | 芸能山城組

 これ以上の詳細は述べませんが、果たしてこれは偶然と言えるでしょうか。

 

ブルガリアの美しき伝統音楽に始まり、偉大なるアマチュアリズムを実践するPhilip Kutev、命がけで素晴らしい音楽を追い求めたマーセルとキャサリンシューゲイザーやドリームポップに絶大なる影響を与えたElizabeth Frazer、今現在でも一貫したレーベルコンセプトを維持し続ける稀有なレーベル4ADとその創設者Ivo Watts-Russel、坂本龍一西洋音楽から解放した民族音楽学者の小泉文夫Akiraの音楽を全面的に担当した芸能山城組にまで至る大きな物語ができました。どこで何がどのように作用し、影響を与えてゆくかは本当に我々の想像を簡単に超えてしまいます。以前このブログで「日本音楽とはいったい」という記事で少し触れたことですが、多様性が音楽、延いては文化の発展に極めて重要だということに改めて気付かされます。

 

終わりに、キャサリンの素晴らしい言葉をここに置いておきます。彼女は、2013年に最愛の夫を亡くしました。そしてその1年後、彼女は、ブルガリア国営放送からの表彰のためにブルガリアを再訪しました。式後のインタビューで彼女は「冷戦時代に夫婦で東ヨーロッパを旅して、5000回ものレコーディングしたのは本当ですか?」と質問を受けた際、以下のように答えました。

 “When one works with love, one does not necessarily keep strict statistics.”
「人は愛をもって働くとき、必ずしも数字を守るとは限らない」


キャサリンとマーセルの名は、音楽の歴史の底に静かに刻まれています。

 

参考資料

 

How Le Mystère Des Voix Bulgares became a timeless cult phenomenon

この記事を書くにあたって最も参考にした記事。読めるのであれば、こちらを読んでもらった方がいい気もします。サイトの中身がなく、キャッシュのみになっていたので、この情報が消失してしまうことを恐れてこの記事を書きました。

The Quietus | Features | Anniversary | 4AD Founder Ivo Watts-Russell On Le Mystère Des Voix Bulgares

アイヴォとブルガリア音楽の関わりについて参考にしました。

 

 

*1:実は、Pete Seegerも同様のことを言っていたと言われています。