捏造日記

電脳与太話

20190823 電脳スクラップブック

タイトル通り、ここ最近で興味を持ったことを切り貼りするスクラップブックのようなものを作ってみました。見る人が見れば面白いかもしれません。

 

・『夜の木』

全てがハンドメイドという画期的な絵本。手漉き紙に、シルクスクリーンで一枚ずつ刷られ、製本は手製本。インドのチェンナイ郊外の工房で、一冊ずつ丁寧に仕上げられました、まさに工芸品とも言うべき絵本(シリアル・ナンバー入り)。ずっと手元においていつまでも眺めていたい一冊です。

 

・音痴に関する短いドキュメンタリー

一般向けのドキュメンタリーだと思うのですが、「音痴」は存在するが絶対的ではなく、相対的に決定されることにまで踏み込んでいて驚きました。1953年に440ヘルツの標準A音が制定されたものの、フランスが442ヘルツ、ドイツが444ヘルツを基準とすることがあるなどは面白い指摘でした。そして、マイルス・デイヴィスの発言が引用されていたことからあることを思い出しました。ハーヴィー・ハンコックが伴奏で致命的なミスをした際、マイルスがそれに機敏に反応し、まるで魔法のようにハーヴィーのミスを「正しい音」にしてしまったという逸話です。

 

・ガスリー・ゴーヴァン

様式化されたギターソロに飽き飽きしている自分が再びギターソロで驚くことになるとは想像していませんでした。ガスリー・ゴーヴァンはフュージョン界隈で神格化されている近年では絶滅危惧種ギターヒーローですが、正直自分にとっては、彼の微分音への関心以外にはあまり興味がありませんでした。伝統的なヴァイオリンやチェロは勿論、ジャコが70年代にエレキベースにフレットレスを大々的に導入しているにも関わらず、ギターにもフレットレスの波が到来しないのは長年の不思議です。


余談もほどほどに驚かされたのはこの映像です。トム・モレロの代名詞的なスクラッチ奏法をしていないにも関わらず、スクラッチのような音が鳴っている謎です。また、グライム界の神ことディジー・ラスカルが、ガスリーを取り上げたことにも驚きです。

 

そういえば、マイケル・ジャクソンのライヴにグレッグ・ハウが参加していたこともありましたね。早弾き新世代の彼にとって、「エディのソロは簡単過ぎる」と言わんばかりに「Beat It」のソロを軽々と弾きこなしていたのが印象的です。ちなみに、私はグレッグ・ハウのこの映像を観て、「ギターの達人を目指すのはやめよう」と思いました。ジャズ・フュージョン界隈はパット・マルティーノ、ジョンスコなど、超人だらけで恐ろしいです。マイナーコンヴァージョンなど、「発想は理解できるけど、一体どのように練習し、どれだけの時間をかけて血肉化したか」を考えるだけで目眩がします。


 

 

・ 日本語ヒップホップ


特に2000年代以降顕著に感じることなのですが、日本ではロックが個人の感情の発露としての機能を失い、良くも悪くも大衆に取り込まれた印象を受けます。様式化された世間からの逸脱はもはや「悪の文化」ではなく、いわゆる「ロック的」なものを求めるリスナーと「ロック的」なものを演奏するアーティストの間の共犯関係によって「ロック的」なものが生産・消費され続けている光景は自分には少々退屈です。

一方、最近の日本語(≠日本のヒップホップ)のヒップホップは面白いと思います。かつての日本のロックが誇っていた大衆迎合よりもアーティストが自己表現を優先する態度が見て取れます。そして、その価値観がyoutubeのコメント欄のような市井でも共有されることが見て取れます。勿論、ヒップホップシーンの全員がそうだとは思いませんが、「アンダーグラウンドで認められてこそ本物」という価値観はヒップホップに携わる多くの人が共有しているような印象を受けます。MCバトルの動画を見ていても思うことで、リスナーが熟練のMCと素人MCの試合を大量に視聴することで、定型的な表現を繰り返す没個性なMCの存在に気付き、そうした人たちが自然淘汰されやすい仕組みができているのは面白いです。サンプリング音源やリリックなどの知識が豊富にある人が「ヒップホップIQが高い」と持て囃されています。オタク文化の香りが残っていて好感が持てます。

 

 

 ・宮崎駿

先日、偶然テレビで『千と千尋』流れているのを目にした際、宮崎作品には、人間が本性的に孕む矛盾に厳しい眼差しを向けながらも、最終的には「人が生きること」を肯定する作風に大きな魅力を感じました。私は「一人じゃない」とか「みんな違ってそれで良い」といった標語が肌に合わないへそまがりなので、リアリズムに立脚したロマンチストという宮崎イズムに感銘を受けました。

曖昧に混沌と一緒に話しているうちに方針が決まる。相手の考え方が間違えてるよとか、そういうことを僕らはしません。これは昔の村のやり方です。それでなんとなく行くんです

 

ジブリの全ての作品に通底するメッセージはありますか」という質問に対する回答。

僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入ったものでして、基本的に子供達に「この世は生きるに値するんだ」と伝えるのが自分たちの仕事の根幹になければいけないという風に思ってきました。 そして、今でもそれは変わっていません

 

 

細野晴臣藤幡正樹の対談

https://www.yebizo.com/jp/archive/forum/dialogue/03/dialogue7.html

今あらためて本を書く必要はない。それでも書く意味があるのは、すでに知られているはずの事柄同士にリンクを貼ることなのだと思ったのです。「僕はこれとこれがこういう関係にあると思う」と。先ほどの話はまったくそのとおりで、今はとにかくリンク切れだらけの世界。だからある程度経験を積み、伝承することに意味を感じる人間は、リンクを貼り直すということをしなければならないのかもしれません。

 

・『ジョアン・ジルベルトを探して』

隠遁していたボサノバの王様ジョアンを求め、彼の大ファンであるドイツ人ジャーナリストのマーク・フィッシャー*1はブラジルを奔走したが天運に恵まれず、その旅の体験を本に認めた後に自殺した。そして、そのマークの本を読んだ監督がジョアンを探す映画を撮影するという作品。これが悪い映画なはずがないでしょう!

・ほくさい音楽博

奏者と聴衆という境界線が非常に曖昧な「民族音楽」というのは非常に良いものだと改めて思います。私は民族音楽に限らず、ローファイなどのような「上手くない」音楽がとても好みです。音楽という文化を奏者or聴衆という二分法で区切るのは非常に勿体無いことだと思います。その点では、まるで演奏に参加しているかのように掛け合いや踊りのある日本のアイドル文化は良いものだと思います。そこに美男美女が歌って踊るというコンテンツ性に加えられるのですから、ファンが熱狂する理由がよくわかります。そんな彼らの踊りに「ケチャ」という民族音楽から取られた名前付けられているのは果たして偶然なのでしょうか。

ジャワ舞踊的な静的な踊りも魅力的です。

こんなにも素晴らしいイベントがあるとは知りませんでした。ヴァーチャルな世界の魅力が増す中、肉体的経験の得られるイベントは貴重です。「みんぱく」には何度も通っていますが、実際の楽器に触れられずに非常に歯がゆい思いをしてきたので、とても羨ましいです。機会があれば(という人の行動力は極めて怪しいが...)、是非参加したいと思います。

学校教育の体育(=運動)や音楽にも通ずる問題だと思うのですが、音楽や体育において明確な「上手さ」が定義されてしまうと、大半の「上手くない」人たちがそれらから距離を置いてしまうという問題があるように思います。しかしながら、音楽や体育(=運動)はヒトの歴史から見て、人間的生活から切り離すことができない重要な要素です。種々様々な表現手段が存在する現代社会のあらゆる場面で音楽が未だに重用されていることは現代の不思議です。またそれはヒトに限った話ではなく、一見音を扱う必要がないように思えるアシカがリズムをビートを知覚するという能力を見せていることからして、動物にとって音楽は何らかの重要な役割を果たしているのでしょう。

 

どうぶつの森

どうぶつの森シリーズはBGMが非常良いのですが、公式サントラが充実していないのが残念です。様々な雰囲気を演出するために様々な音階が使われていて面白いです。

リンクの曲をはじめて耳にした時、「ジョンケージに似てる」と思いました。任天堂所属の片岡真央と朝日温子がメインコンポーザーという情報はありましたが、どの曲を誰が作ったのかまでは不明です。ゲームミュージックは広大な沃野と思いつつ、まだまだ手をつけられていない悲しい状態です。例えばマリオのメインテーマなど、一体どこに由来するのか不思議で仕方ないです。

*1:界隈で盛り上がっている思想家とは別