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Personal Fabrication

音楽と本

音楽と本質

ある音楽を好きになる際、その「好き」はその音楽の本質的良さを悟ったためなのか、あるいは単なる適用による慣れがもたらした「好き」なのかの区別は困難を極める。

 

身も蓋もないことを言って終えば、それらは明確な区別をする必要もなければ、そもそも区別など必要ないのだろう。

 

ただ、一人の音楽を聴く人間としては、音楽の枝葉の部分ではなくて、前者(本質的な良さを悟る)を目的として音楽を聴いている。しかしながら、本質主義に立脚したこの考え方自体が誤りである可能性も十分に考えられる。

 

今の私の姿勢としては、構成主義的・相対主義的に音楽に関わるよりも、本質主義的な考え方を取るほうが、より良く音楽に関わることができるのではないかと思っている。なぜなら、「音楽の普遍的本質などは存在しない」とする姿勢は、一見正しいように思えるけれども、実際的には音楽への姿勢を消極的で怠惰にしてしまうように思えるからだ。一方、「音楽の普遍的本質が存在する」とする姿勢は、本質を追求するために積極的に音楽にコミットしようする強い動機を与えてくれるため、より能動的な音楽の探求へと導いてくれる。

 

音楽に本質が存在するかという議論は、本当に難しい。

音楽の「良さ」は認識による産物なのか、音楽自体に含まれているのか、その両者の相互補完関係によって生成されるのか、さまざまな立場があるとは思う。

とりあえず、私は、実際的に音楽に関わるうえで、ポジティヴな結果に繋がる可能性が最も高そうな立場をとることにしている。

 

まあ正直に言えば、そんなことを厳密に考えようとしなくても、例えば、こんな音楽聴いたら本質の存在を信じずにはいられない。

 

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しかしながら、そういった直観が自分を容易に欺くことも理解している。なぜなら、私は、直観はアプリオリに与えられた自明のものではなく、経験の集積によって得られた可謬的なものであると考えているからだ。

 

「知識でもなく直観でもない何かを活用して、いかに音楽の本質に辿り着くのか」というのは私にとっての永遠の課題だ。

 

第一、現時点の私では「音楽する」に十分な成熟に至っていないように思う。

なので、今は肉体的精神的に十分な栄養を与えて、大前提となる成熟に至ることが必要だと思う。堅牢な建造物が、熟練の建築家からしか生まれないように、強固な思想は、成熟した人間にしか生み出せない。

 

まずは、自らの身体を清めることが必要なようだ。